京都 七条朱雀 権現堂~ 老ノ坂 首塚大明神 ~ 亀岡 穴太寺

 

 

七条朱雀 権現堂

 

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参道に源為義の墓 7月30日が為義の命日だと聞いた。(今日は奇しくも7月30日)

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門を入って右手のお地蔵さん。

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門から見て正面、地蔵堂

身代わり地蔵は8月半ばの御開帳の時でないと拝観できない。残念。

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この由緒書に書かれていることを、わかりやすくまとめるならば、

鎌倉時代末には存在していたらしい弥陀林寺(現在の権現寺)が、室町時代に衰退。その再興のために「山椒太夫」に便乗して、「火印地蔵菩薩譚(津子王物語)」を説いて地蔵講を行って、権現堂のご利益を弘め、寺を再興したということ。再興は1596年(慶長元年)。

 

さらに ↓ の由緒書を読めば、そもそも弥陀林寺には権現堂はなく、

そもそもは、都の西端を守る歓喜寿院の境内に祀られていた勝軍地蔵の堂宇が権現堂と称されていて、その歓喜寿院が室町時代に荒廃し、権現堂のみが残った。それが弥陀林寺に譲られた、という経緯があったということ。 

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七条朱雀から 老ノ坂峠を越えて、

亀岡・穴太寺

(この道は、丹後由良から京へと逃げてゆく厨子王がたどった道。それを京都側から逆に走っている。この道を国分寺の和尚が厨子王をつづらに入れて背負って歩いた)

 

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老ノ坂峠

 

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トンネル脇の左側の旧道に入る。

つきあたりを左に行けば「首塚大明神」。酒呑童子首塚

さらに左に進めば「山城」と書かれていた。

右に行けば、老ノ坂峠(旧道)を越えて、「亀岡」。

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亀岡 穴太寺

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厨子王丸肌守御本尊
安寿と厨子王丸の悲話の伝説に語られる厨子王丸肌守御本尊をおまつりしています。 2人が山椒太夫に捕らえられ、過酷な責めを受けた時、その苦しみを代わりに受けてくださった仏様といわれています。 安寿が厨子王丸を逃がし都へ上る途中、厨子王丸をかくまった寺の一つが穴太寺だったといわれ、のちに、厨子王丸はこの肌守御本尊を穴太寺に奉納し供養したと伝えられています。

 

この守り本尊は、大人の小指の半分くらいの大きさ。

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斑鳩「十一面観音」散歩  法輪寺 ~ 牛頭天王社(今は大神宮というらしい)~法起寺

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まずは法輪寺

 

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この寺は妙見信仰の寺。

 

寺の背後の山に妙見さんを祀る祠がかつてはあった。

十三所宮もあった。

寺の東側に牛頭天王社もあった。

(と、江戸時代に描かれた法輪寺の絵図にはある)

 

ご住職曰く、法輪寺はこの土地の産土を祀る寺だったと。

 

現在の境内にある三重の塔、妙見堂、講堂は昭和になっての再建。

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ご本尊の薬師如来は飛鳥仏。

「法輪寺  焼くs如来」の画像検索結果

 

 

かつての牛頭天王社を訪ねてみることにする。

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大神宮」「郷内安全」 とある。 「おかけ」とある。

 

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かつての牛頭天王社は、手入れはされているけれど、牛頭天王の牛の字もない、

知らずにくれば、祭神がなんなのかもわからない、静まりかえった社。

 

ここから法輪寺に向かう。

法輪寺平安時代より法隆寺の傘下に入り、今は法隆寺の管理下の無住の寺。

 

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「法輪寺  十一面観音」の画像検索結果  「法輪寺  十一面観音」の画像検索結果

3メートル以上の十一面さんはなかなか素敵。

ここは江戸初期に真言律宗の中興の祖とでもいうべき真政圓忍※とその弟子たちによって

延宝6年(1678年)には三重塔が修復されている。

元禄7年(1694年)には講堂が再建され、文久3年(1863年)、聖天堂が建立されている。

 

※ 和泉国大鳥郡にあった真言律宗寺院神鳳寺(じんぽうじ)は、近世の戒律復興運動の拠点。大鳥神社の神宮寺。真政圓忍はその1世。そして、また、高野山円通寺2世。法隆寺北室院3世。

 加賀国出身。1609年(慶長14年)生。高野山宝光院で学ぶ。高野山円通寺法隆寺北室院の賢俊良永に師事。1647年(正保4年)円通寺と北室院の両寺を嗣ぐ。1661年(寛文1年)法隆寺覚無庵に隠退。法起寺の復興に尽力。1672年(寛文12年)、弟子の快円恵空から招かれ、律院とする。1677年(延宝5年)閏12月25日、法起寺で死去。存命中の1674年(延宝2年)9月に放光寺に彫像が残る。

 

十一面さんが収蔵されている収蔵庫には、不動明王も収められている。

真言律宗、聖天さんとくれば、生駒の寶山寺をおのずと思い起こすのだが、寶山寺の湛海律師について、寶山寺HPにはこうある。

 

生駒山は大昔から神や仙人のようなお方が住む山と周辺から仰ぎあがめられ、巨巌や奇石、幾つかの窟から成る魁偉な姿の般若窟は、寺伝によれば、役行者が梵文般若経を書写して納め、弘法大師も若いころ修行された。
今から三百数十年前、伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師(一六二九~一七一六)は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。
その後、京都に歓喜院を建て、独立した。しかし、ある日訪れた円忍律師の教えを受け、堺・神鳳寺(現、大鳥神社)で律師に戒を授かり、真の仏法とは何かを求めることに目覚めた。そして、道場だけの行に飽き足らず、大和葛城山麓の山林で千日不出の木食行を続け、その千日目近く、我が行を完成するにふさわしい山として「生駒山の存在」を、念ずる不動明王に暗示された。
延宝六年(一六七八)十月十日、湛海は数人の弟子と生駒山に入った。村人や郡山藩家老らの援助と協力で翌年正月、五間四面の仮本堂が出来、湛海は念願の八万枚護摩を果たした。寺は当初、大聖無動寺と号した。

 

法起寺再興の真政圓忍律師と湛海律師の結びつきの発見。そして、ここまでくれば、修験の気配が濃厚に立ち上がる。

 

「神々の明治維新神仏分離」によって消されたものたちの気配。

 

そもそも、法隆寺神仏分離の嵐が吹き荒れるまでは真言宗であり、江戸初期には当山派の先達寺だったという記録が残っている。

当山三十六正大先達衆を構成する寺院は若干の移動もありますが,室町時代末から江 戸時代初期頃は,大和の中の川・菩提山実相院・鳴川千光寺・法隆寺・矢田寺・茅原寺 ・金剛山寺・安部寺・信貴山寺・釜口長岳寺・菩提山正暦寺多武峯寺・桃尾寺・三輪山平等寺・内山永久寺・超昇寺・高天寺・霊山寺吉野桜本坊・松尾寺・忍辱山円成寺 ・橘寺・長谷寺紀伊粉河寺・根来寺の東と西・高野山和泉の槙尾山施福寺・神尾 寺・朝日寺・高倉寺・和田寺・牛滝大威徳寺,摂津の丹生寺・河内の鷲尾寺・播磨の朝 光寺,山城の海住山寺浄瑠璃寺・高雄神護寺・伏見寺,近江の飯道寺の梅本院と岩本 院,伊勢の世義寺などが認められます。

 

法輪寺の受付の叔父さんたちに聞いてはみたけれど、ここは修験とは違う、修験ならば松尾寺じゃないですか、との答え。

松尾寺は法隆寺の奥院であり、修験の修行寺だったという説もある。

 

高野山円通寺2世。法隆寺北室院3世。加賀国出身。1609年(慶長14年)生。高野山宝光院で学ぶ。高野山円通寺法隆寺北室院の賢俊良永に師事。1647年(正保4年)円通寺と北室院の両寺を嗣ぐ。1661年(寛文1年)法隆寺覚無庵に隠退。法起寺の復興に尽力。1672年(寛文12年)、弟子の快円恵空から招かれ、律院とする。1677年(延宝5年)閏12月25日、法起寺で死去。存命中の1674年(延宝2年)9月に放光寺に彫像が残る。

2021年2月3日  南山城/ 京田辺 観音寺 (十一面観音を観に行く)

京田辺 観音寺 

 

天武天皇の勅願により義淵僧正が創建した。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれている。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったと伝えられている。 幾度となく火災に見舞われ、永享9(1437)年の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。 現在は、本堂と庭園が周囲の里山に調和し、美しい姿を見せており、春には参道の桜並木や一面に広がる菜の花が、秋には紅葉がひときわ目を引く。

                         (京田辺市観光協会HPより)

 

観音寺ご住職の話によれば、

ここは興福寺の北別院。それだけに、平清盛の南都焼討の際にも焼討に遭ったという。

現在、地理的には京都府だが、歴史的には平城京の北の端になる。

 

 

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観音寺遠景。右側に見える石碑は日露戦争の慰霊塔。

背後の森の中には、不動明王像のある水行の場がある。ただ、今は使われている形跡はない。水は枯れている。

(写真は後出)

 

 

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かつては大伽藍普賢寺であったが、現存するのはこの大御堂だけ。

 

 

 

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さて、観音像を観に行こうか。

 

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十一面観音立像 天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。

天平16(744)年良弁僧正(ろうべんしょうじょう)開基時の仏像。

                  (京田辺観光協会HP より)

 

奈良・桜井の聖林寺の十一面観音にも似ると言われているが、聖林寺のほど男性的な感じはしない。たおやか。

 

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お堂の左端の小さな厨子の中にも小さな十一面さん。

白い十一面さんは白山神社にいた十一面さんではないか、(白山系の十一面さんは白いのだという)、神仏分離のときに白山神社から放り出されたのが救出されてここにあるのではないかというような話をご住職から聞いた。

 

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明治の神仏分離以前は、この神社は観音寺の鎮守の神。

今は寺から切り離され、天王の朱智神社の管轄となっている。

朱智神社は、神仏分離以前は牛頭天王社。神社のある一帯は天王地区。地名は今も残る。(朱智神社にはこのあと行く)。

 

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アウトドア、、「若 谷 例 を 島 場 社 城 備 経 祭 前 河 刻 覆 観 当 ま 高 現 音 正 明 式 大お れ 在 徳 油 内 国 初 死 十 月 並 元 亀 挙 年 å… 日 現 州 ç”° ç”° 辺 辺 市 文 市 化 教 財 保 護 委 委 å¡ 会会 参 軍 地 田” æ 神~ 社 番 地 比分 売 ç 利 神 果 は る。 堂 現 在 の」というテキストの画像のようです

 

木、アウトドアの画像のようです

 

木、アウトドアの画像のようです

神仏分離以降、近代化以降、国家の宗教体系の枠の中に寺社も人間も組み込まれたあとには、近代戦の犠牲者の碑が神社の境内に立つことになる。

 

慰霊塔の裏には、忠魂碑と刻まれている。

国家に忠義な魂の碑。

 

さあ、朱智神社に向かう!

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カーナビに天王地区の地名が。

ここは牛頭天王のお膝元の地域となる。

 

 

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集落の上へ上へ、奥へ奥へと、軽の自動車がやっとの急な細道を登っていくと、現れる。

 

ここは、目に見えないものたちの気配が立ち込める。 

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本殿。扉は閉じられ、ご本尊は見えず。残念。

 

 

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最強の疫病神であり、疫病を祓う神である牛頭天王を祀る社というのに、結構弱腰。

 

 

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境内には牛頭天王と刻まれた奉納の灯篭。

 

山を下りて、打田地区に行けば、須賀神社

ここもかつては牛頭天王社。朱智神社が遠いので、ここにも牛頭天王社をということで、造られた。 

 

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赤の社は春日社

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こちらの社は熊野社。

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本殿の背後に八大龍王

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須賀神社の脇の階段を降りて行ったところの隅には大東亜戦記念碑。

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2018年10月 九州(宗像~熊本~鹿児島の旅)

宗像市多禮 字柚木 指来神社

今回、「不知火浄瑠璃(しらぬいじょろり)」公演に招いてくださった 看取りの家「ひさの」の裏手の丘に鎮座する産土神

福岡県神社誌にはこうある。

 

【祭神】 気長足姫命、阿蘇津彦命、大己貴命、高龗神、少彦名命、水波能売命、豊日別命

 
【由緒】 気長足姫命、阿蘇津彦命は此村(元多禮村)の産土神也村民の説に此神は神功皇后異国御征伐の時御旗を司り給ひし神也故に旗指大明神と云しを今は訛りて指来明神と云とも又一説には阿蘇津命を祀るとも云へり旧記伝らずして由緒審ならず。創立不詳、明治五年十一月三日村社に被定。
 
大己貴命少彦名命は本村(元多禮村)の内三重と云ふ所の産土神なり元禄年中池田村の本社より勧請孔大寺神社と云ふ。
高龗神は字井尻より、水波能売神は字岩ヶ鼻より、水波能売神は字上多禮たれ(同祭神二箇所)より、孔大寺神社に合併す。村社指来神社(祭神気長足姫命阿蘇津彦命)は字柚の木、無格社豊日神社(祭神豊日別命)は字岩ヶ鼻に祭祀ありしを、大正五年六月五日許可を得て孔大寺神社に合併、と同時に村社指来神社と改称す。
 
【例祭日】 十月十三日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿
【境内坪数】 六百八十三坪
【氏子区域及戸数】 多禮区 三十五戸
【境内神社】 孔大寺神社(大己貴命少彦名命

 

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社殿のなかの奉納画

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これは多禮の石鎚神社

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当山の歴史

弥勒菩薩 宗像四国東部札所
当区の祖先は、農産物守護のため、当山に弥勒菩薩を建立した。(年代不詳)依って弥勒山と称する。現在は石鎚山とも言う。現在の石祀には、寛政年間再建と記されており、区民の祭日を毎年三月十三日と定め、昭和中期迄御座を続けていた。
今は十三佛の内に合祀している。

石鎚神社 宗像四国東部札所
明治十二年四国石鎚神社を迎え奉る。宗像全郡に信者多く明治四十一年数百名の寄付者により当山の樹木にて現在の拝殿を建立する。以来四国参拝の信者先達を始め一般の参拝者多く今日に至る。
十三佛は大正三年に建立され、霊験あらたかにて御利益を受くる信者多く参拝者の賽銭の一部にて此の碑を建立する。

昭和五十九年九月

 

役行者!! 神社と言いつつ、要はこの地域の修験の根拠地の一つ。

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弘法大師!!

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不動明王をはじめとする仏たち

不動明王の顔が欠け、左腕が落ちているのは、廃仏毀釈の跡だろうか。

いずれにせよ、ここは神社と言いつつも、はっきりと神仏習合の跡を残している。

これらの仏像には大先達〇〇といった寄進者の名も刻まれている。

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宗像市池田 孔大寺神社

 

ここももとは修験。 多禮の指来神社は、もとはこの神社の別院だった。

(神社というから、なにか違和感があるのだが、つまりは多禮のほうも近代以前の神仏習合の信仰の中にあった修験のよりどころだったということ)。

この鳥居の先の遥拝所の裏手には庚申塚がいくつか。

 

孔大寺神社は明治維新までは孔大寺權現社と呼ばれ、蔵王権現を祀っていた。

以下の説明は、下記ブログより。

http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65708011.html

 

孔大寺山は、かつて大峯山蔵王権現(開祖役小角)を奉祀する金峰山修験(吉野山金峯山寺)系の山で、神仏習合の孔大寺神社上宮(旧孔大寺權現社)がある。
 また、指來神社の北東600mに薬師如来弥勒菩薩を安置した多禮「極楽寺山(弥勒山)」(現・石鎚山修験系「石鎚神社」鎮座)がある。
 また、岩ケ鼻(同北西500m)にはかつて「豊前坊豊日神社(現指來神社に合祀)」(英彦山修験系)が鎮座していた。
 さらに北寄りの峰続き(同1.5km)に真言宗御室派鎮国寺(吉田)が在るなど、低丘陵の占有率が高く耕地面積が少ない多禮地区にはもともと修験道が芽生える地盤があったということなのだろう。
 なお、明治維新政府の破壊的な施策により孔大寺權現(社)、指來大明神(社)、豊前坊(社)等の神名(神社名)等は使用できなくなり、当地における修験道神仏習合的信仰は潰えたが、明治期、極楽寺山(弥勒山)に「石鎚神社」が鎮座した。

 

 

 

 これは梛野薬師堂。

かつて、孔大寺神社に参る道には、多くの宿坊があり、ここもその名残のひとつと聞いた。脇に並ぶは、四国88か所の観音さんたちの一部。

もちろん不動明王もいらっしゃる。

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夕暮れの宗像の海。

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宗像大社奥の院 高宮 神の降臨した場所。

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これは沖ノ島神宿る岩。 藤原新也の写真。

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宗像から鹿児島の途上で、熊本日日新聞を読む。

遠いところほど、弱い者ほど、目に見えないところほど、切り捨てられる

忘れられる、復興の風景。
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鹿児島 鴨池港 鹿屋を目指して出港する。

目的地はハンセン病療養所 星塚敬愛園。

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敬愛園には、八重山出身の入所者の家を訪ねての旅。石垣島からの唄者も一緒。

9年ぶりの再会。彼らは島の唄を聴くことを切望していた。

9年前に訪ねた折に唄者が歌ったものを録音したテープは、もう擦り切れてしまったのだと彼らは言った。 

 

 

 園のはずれにある「敬愛神社」跡を探訪。

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 湿った林の中に社殿の礎石が残っていた。

戦後、いつ取り壊されたのか。

そもそもなんのために、国家に捨てられた人々の暮らす地に国家神道の神社が建立されたのか。

それは、植民地にも必ず建立された神社と軌を一にする性質のものか。

熊本の菊池恵楓園では1941年に貞明皇后の歌碑建立と同時に恵楓神社も建立されている。

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最初の納骨堂跡。

崖の山肌を窟屋のように掘り込んで作ってある。

西本願寺が大いに関わっている。

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骨片を集めて収めた収骨の穴の跡。

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この湿った林の中で、小さなマムシを見つけた。 

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とても近代的な旧火葬場。

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煉瓦造りの初代火葬場。

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熊本 山都町 通潤橋から  緑仙峡・穿の宮へ 2017年9月16日

通潤橋遠景

石牟礼道子『水はみどろの宮』のモデルの石橋を探して、

通潤橋に。

作中の橋は眼鏡橋。だが、水なき山あいの村の水田のために水をもたらした石橋と言えば、ここしかないだろうと。

 

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案内板

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通潤橋の上部 水路は熊本地震で破損し、修理工事中。

よって、本来は立ち入り禁止。

工事関係者の許可を得て、上から橋を見た。

平常時はこの水路の上に土を敷いて歩道になっている。

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布田神社  通潤橋を創ることに尽力した総庄屋布田保之助を祀る。

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通潤魂!!!

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さて、本来は、工事中のため通潤橋上部の方へとは入れなかったのであるが、それを知らずに工事現場まで行き、この地図を見つけた。

「穿の洞窟」とある。

おお、これは石牟礼道子『水はみどろの宮』の「穿の宮』ではないか!!!

と、進路変更、一路、「穿の洞窟」を目指す。 

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【山深い緑仙境】

 

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さあ、穿の宮をめざす!

道で教えを請うた地元の方によれば、この標識のほうへ、車で行けばすぐだと。

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おそるおそる山あいの道、

まだこのあたりはいい、

だんだん道は細くなり、

軽でもいっぱいいっぱいの道幅になってくる

右側は断崖、下は深い谷になっていく。 

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右に行けば、湯鶴葉

左に行けば、内の口、穿の洞窟、

しかし、すぐにでも見えると思った穿の洞窟(穿の宮)は、一向に見えず、車はますます細くなる山道を後戻りもできず、どんどんのぼっていき、はるか下の谷に落ちるのではにかという恐怖とともについに山道の頂上へ。

ちょうど大雨のあとで、道は土砂とともに流れ落ちてきた石がごろごろ、流れ落ちてきた木も道にはみ出て、しかも路肩は緩くていつ崩れるかもわからない、それは実にインディジョーンズのような道のり。

この道は後々地図で調べましたが、100パーセント車道ではありません。

絶対に車では行ってはなりません。

あんまり恐ろしくて登り切った場所の写真を撮れなかったのだけど、

その深い山中に農業の為の倉庫らしきものがあり、2~3基の立派な墓も。

山中の部落をふと思う風景でした。

あとから、このあたりのサンカのことを調べるきっかけとなる風景でした。

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死ぬ思いでかなり下まで山道を戻ってきて、地元のお爺さんに尋ねたら、

山道の途中、左手、公衆便所のあるところが穿の宮への降り口と教えてくれた。

穿の宮は、谷底の沢のほとりに立つという。

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鳥居が見えてきた。沢の音がする。

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なんと、

「水はみどろの宮」は、「穿の宮」のまた別の名「緑の宮」からきているのではないか!

しかも、

この緑の宮は百合若大臣の愛鷹緑丸を祭ったと、ここにも「百合若伝説」!

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穿の宮のご神体は、本来、沢の向う側にある穿の洞窟だろう。

この洞窟は宮崎に通じているという伝説がある。

石牟礼さんは、ここからインスピレーションを得て、

穿の宮の底には、肥後と日向にまたがる地底の湖があるとした。

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最近はこちらの案内板

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穿神社の社殿から、穿の洞窟を望む。

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こんなに大きな洞窟!

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洞窟から社殿を望む。

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いかがわしい山伏、祈る。

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洞窟の奥の行方はわからない。

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洞窟から見る沢の風景。

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上流を見る。

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水の音。

www.youtube.com

足尾銅山観光

足尾銅山に向かうあかがね街道から渡良瀬川を見る。

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あかがね街道から足尾の山々を見やる。

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足尾銅山観光は、トロッコ電車で坑内に降りてゆく。

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水のしたたりおちる坑内。

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坑内神社。

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<銅山の町 小滝>

 

 

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銀山平社宅跡>f:id:omma:20171226114314j:plain

 

家も人もない、現在の銀山平

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<本山神社跡> 

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足尾 磐裂神社のこと メモ

磐裂神社は、庚申山への入口、一丁目に位置する。

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庚申山は修験の山。山頂には猿田彦が祀られる。
磐裂神社は、地元では「妙見さん」と呼ばれる。
大同3年の創建とされる。 

これは、<鉱山と修験と大同>の連関の問題を想起させる社!。

cf) 『東北学/忘れられた東北』(赤坂憲雄)の第8章「鉱山で、山の神の代官たちが福音を説いた」より。

「修験者は山の代官として、鉱山の採掘や経営にしたがう山師であり、また、山の神の祭りにさいしては猟師でもあった。遠野の早池峰山妙泉寺は、大同年間、来内村の猟師・藤蔵の手によって建立されたと伝えられる。藤蔵はのちに修験者となった。そして、来内村の金山から採れた金をもって早池峰山の奥宮を建てたとする伝承は、かれが金山師でもあったことを物語っているはずだ」
 
「列島の各地の鉱山には、開坑を大同2年、また大同年間とする伝承が数多くまつわりついている。

 
cf) 『山の民川の民』(井上鋭夫 平凡社選書) 『遠野の原風景』(内藤正敏 ちくま文庫



<栃木県神社庁HPより>

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当神社は、上古妙見天童と称し中古妙見大菩薩と称し近古妙見宮と称せしも、明治四年七月四日付太政官布告の郷社定則の時、磐裂神社と改称せり。
往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。
往昔、足尾郷は中禅寺領なりしも徳川幕府日光に廟を建てるに及び日光領となり一切の支配を受ける。
明暦元年、日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の年篤く釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり。
明治十四年、幣帛共進神饌料進の指定社となる。
明治四十四年三月二十日許可を得て、村社磐裂神社及び境内社五社を前遠下の地より現在の地に移轉せるものなり。

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web上から引用。

「足尾五氏」と言われる一族14人が、(日光から移住したとも伝えられている)妙見宮の分身を拝受し、大同3(808)年に氏神として祀り、後に足尾郷14ヶ村の鎮守となりました。
関東三大妙見様の1つといわれています。
境内には、栃木県銘木100選の大檜の、御神木があります。
当初は、現在の中才浄水場のところにありましたが、浄水場をつくるときにこの地にうつされ、名前も磐裂神社に改められました。

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★磐裂神社には 別当寺として妙見山竜福寺なるものがあったが、足尾銅山の衰微にともない、廃寺となる。
栃木県神社庁HPに、「明暦元年、日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の年篤く釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり。」とある釣鐘は、この別当寺の鐘楼に吊るされたのだろうか。

足尾銅山の衰退とともに廃寺というが、神仏分離令のときのことではないのか? 神社自体は足尾総鎮守であって、名称は変わったが廃絶していない。

この項つづく。

中国人殉難烈士慰霊塔/朝鮮人供養碑

中国人殉難烈士慰霊塔は銀山平にある。巨大。
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朝鮮人強制連行犠牲者慰霊碑は、銀山平へと登ってゆく道の左脇、
古足尾橋の手前にひっそり。
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http://edaddeoro.jp/ashiodozan.html より。以下、引用。


太平洋戦争中の日本の鉱山では、多くの外国人が強制的に働かされていた。足尾銅山では257人の中国人(猪瀬建造『痛恨の山河―足尾銅山中国人強制連行の記録』随想舎、1994年)、1444人の朝鮮人(古庄正「足尾銅山朝鮮人強制連行と戦後処理」『駒沢大学経済学論集』第26巻4号、1995年)、約400人ほどの白人捕虜(足尾銅山労働組合編『足尾銅山労働運動史』1958年)が銅山関連の労働をさせられた。

中国で日本軍の捕虜になった八路軍と国民党軍の捕虜は「俘虜収容所」に入れられた。俘虜収容所は同時に「労工訓練所」の看板を掲げ、俘虜として入った中国人が「労工」と名を変えて収容所から出てきた。彼らが日本に送られ、各地の工場や鉱山で働かせられた。外務省の資料では4万人弱、中国側の資料では5万人以上とされている。栄養状態の良くない収容所で暮らし、食糧事情の悪い日本で働いたため、多くの人の死因は栄養失調による衰弱だった。足尾銅山に送られてきた257人のうち109人が死んでいる。死亡率が4割を超える異常さだ。

朝鮮人労働者も朝鮮半島から連れてこられている。1944年の当時の日本政府の動員計画によると朝鮮半島から29万人の動員が計画されていた。実際に動員された人の総数や、自由意思で日本にやってきた労働者、強制連行された労働者の正確な数字は、今となっては把握がむずかしい。たとえば韓国政府は太平洋戦争の時期に50万人の韓国人が強制的に日本連れて行かれたと主張し、日本政府は自由契約朝鮮半島から日本に働きに来たと主張している。足尾銅山では70人余りの朝鮮人労働者が死んでいる。

白人捕虜は捕虜収容所で銅山の坑外作業に従事していた。

松木沢:足尾銅山の煙害と山の乱伐で滅びた松木村跡

松木沢をゆく。風が吹いている。風のなかに声が潜んでいる。

 

ここは渡良瀬川源流。背後に見えるのが松木沢。

沢の両脇の山は、ほぼ丸裸の山。

山には、「治山と砂防で足尾に緑を」というスローガンのボード。

 

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渡良瀬川源流の水神

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煙害と木の乱伐の末の丸裸の山。

この状態が明治の世から昭和まで続いていたことに驚く。

銅の精錬時に排出される亜硫酸ガスを技術的問題でそのまま放出していたという。

水俣病と言い、原発といい、近代文明、近代科学というのは、

いったい後始末ということを考えないのだろうか……。

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松木沢案内図

 

川を右手に見つつ、松木沢をめざして、旧松木村一帯を歩いてゆく。

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渇水期の冬の河原は、まるで賽の河原のようだ。

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銅鉱石から銅を選別した後のカラミ(鉄分を多く含む残りかす)を捨てたボタ山

鉄製の網や、木の塀がボタ山の下には置かれているが、

この柔らかい砂丘のような山が雪崩のように崩れ落ちてきたならば、

なんの役に立ちそうもない。

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見わたすかぎり、ボタ山

この黒い山は柔らかい山。砂丘を歩くように靴がめりめりめりこむ。

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道の途中、左手に3つの塚が見えた。

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これは江戸期の念仏供養塔のよう。

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松木沢に向かって左手、山の方に向かって、山の神らしき祠がある。

あんなふうにずたずたにされた山に、まだ神はいるのだろうか。

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この祠は文化年間(1804から1818年)のもの。

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来た道を振り返る。

この道には鹿の足跡があった。

川向うの山からは鹿の、キュー、キューという鳴き声。

姿は見えない。

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松木村。

江戸後期の記録では37戸170人の村人。

小麦、豆をはじめとする肥沃な共同の畑。養蚕。

銅山に使用する木の乱伐、亜硫酸ガスによる煙害による木の枯死。

そのうえ、山火事までもが重なり、山は禿山となり、土砂は流出。

硬い岩盤だけの無惨な死骸のような山となる。

 

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村人は当時のお金で4万円を受け取って、村を去ってゆく。

そして、村は銅山のゴミ捨て場となる。

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NPO法人 森びとプロジェクト委員会により、植林された木々。

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村のはずれ。墓石が集められている。

このほか、多くの無縁仏の墓石は、松木沢の手前の竜蔵寺に集められて祀られている。

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かつての村はずれ。

左手の山の頂上部分は岩が壁のようにそそり立つジャンダルム。

フリークライミングの名所らしい。

 

この川のずっと向う、ひと山越えれば、日光。

 

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無縁の墓石で造られた廃村松木村無縁塔。

 

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渡り坑夫の墓。

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  ある日、竜蔵寺を遠方より先祖の供養をしたいという篤信の方が訪ねてきた際に調べたという、

 そのとき開いた明治23年5月中の過去帳には、
 「葬式が30回以上もあるが、古くからの檀家のものは一軒もなく、いずれも他国から足尾銅山に流れてきた鉱夫の関係者ばかりで、幼児以下は15人おり、それも死体分娩、乳児がほとんどある。今から百年以上前の発展途上の足尾銅山ゴールドラッシュ時代のことなので無理からぬ事情であろう。

さて、5月の鉱夫たち自身の死亡は16人おり年齢をみると19歳1人、20歳代8人(23歳1人、24歳5人、26歳1人、27歳1人)、残り7人中4人が生年不詳となっているが、おそらく20歳代であったであろう。いずれも、坑内で働いた手掘り坑夫や支柱夫たちであろう。」

 

足尾鉱毒事件、谷中村滅亡のことを考える時、

その前に渡良瀬川上流の山の死があったこと、

山村の民の離散があったこと、

さらには、ヤマ(銅山)という、地中の無数の死があったこと、

これを忘れてはならないだろう。

目の前の事件は、山と平地を結ぶ川、

命と命を結んでゆく水脈を抜きにして考えることはできない。

そして、山深く潜って命を削っていた者たちのことも。

 

山と平地を結ぶ命の水脈を断つところから、

そして水脈を死の水にかえるところから、

日本の近代は始まったのだということを、

足尾鉱毒事件は、如実に、象徴的に教える。

 

参考。 松木村 - Wikipedia