斑鳩「十一面観音」散歩  法輪寺 ~ 牛頭天王社(今は大神宮というらしい)~法起寺

 

 

 

地図の画像のようです

 

 

まずは法輪寺

 

アウトドア、寺院の画像のようです

 

アウトドア、寺院の画像のようです

 

寺院、アウトドアの画像のようです

 

この寺は妙見信仰の寺。

 

寺の背後の山に妙見さんを祀る祠がかつてはあった。

十三所宮もあった。

寺の東側に牛頭天王社もあった。

(と、江戸時代に描かれた法輪寺の絵図にはある)

 

ご住職曰く、法輪寺はこの土地の産土を祀る寺だったと。

 

現在の境内にある三重の塔、妙見堂、講堂は昭和になっての再建。

 

木、アウトドアの画像のようです

アウトドア、寺院の画像のようです

 

写真の説明はありません。

 

 

 

アウトドア、木の画像のようです

 

写真の説明はありません。

 

 

平安時代に作られた十一面さんは、なかなか魅力的。

「法輪寺  十一面観音」の画像検索結果  「法輪寺  十一面観音」の画像検索結果

 

 

 

ご本尊の薬師如来は飛鳥仏。

「法輪寺  焼くs如来」の画像検索結果

 

 

かつての牛頭天王社を訪ねてみることにする。

アウトドア、木の画像のようです

 

 

 

 

「大神宮」「郷内安全」 とある。        「おかけ」とある。

アウトドア、木の画像のようです  記念碑、アウトドアの画像のようです

アウトドアの画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

 

かつての牛頭天王社は、手入れはされているけれど、牛頭天王の牛の字もない、

知らずにくれば、祭神がなんなのかもわからない、静まりかえった社。

 

 

ここから法輪寺に向かう。

法輪寺平安時代より法隆寺の傘下に入り、今は法隆寺の管理下の無住の寺。

アウトドア、木の画像のようです

 

アウトドア、寺院の画像のようです

 

テキストの画像のようです

 

アウトドア、寺院の画像のようです

 

1人の画像のようです

 

2人の画像のようです

 

3メートル以上の十一面さんはなかなか素敵。

ここは江戸初期に真言律宗の中興の祖とでもいうべき真政圓忍※とその弟子たちによって

延宝6年(1678年)には三重塔が修復されている。

元禄7年(1694年)には講堂が再建され、文久3年(1863年)、聖天堂が建立されている。

 

※ 和泉国大鳥郡にあった真言律宗寺院神鳳寺(じんぽうじ)は、近世の戒律復興運動の拠点。大鳥神社の神宮寺。真政圓忍はその1世。そして、また、高野山円通寺2世。法隆寺北室院3世。

 加賀国出身。1609年(慶長14年)生。高野山宝光院で学ぶ。高野山円通寺法隆寺北室院の賢俊良永に師事。1647年(正保4年)円通寺と北室院の両寺を嗣ぐ。1661年(寛文1年)法隆寺覚無庵に隠退。法起寺の復興に尽力。1672年(寛文12年)、弟子の快円恵空から招かれ、律院とする。1677年(延宝5年)閏12月25日、法起寺で死去。存命中の1674年(延宝2年)9月に放光寺に彫像が残る。

 

十一面さんが収蔵されている収蔵庫には、不動明王も収められている。

真言律宗、聖天さんとくれば、生駒の寶山寺をおのずと思い起こすのだが、寶山寺の湛海律師について、寶山寺HPにはこうある。

 

生駒山は大昔から神や仙人のようなお方が住む山と周辺から仰ぎあがめられ、巨巌や奇石、幾つかの窟から成る魁偉な姿の般若窟は、寺伝によれば、役行者が梵文般若経を書写して納め、弘法大師も若いころ修行された。
今から三百数十年前、伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師(一六二九~一七一六)は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。
その後、京都に歓喜院を建て、独立した。しかし、ある日訪れた円忍律師の教えを受け、堺・神鳳寺(現、大鳥神社)で律師に戒を授かり、真の仏法とは何かを求めることに目覚めた。そして、道場だけの行に飽き足らず、大和葛城山麓の山林で千日不出の木食行を続け、その千日目近く、我が行を完成するにふさわしい山として「生駒山の存在」を、念ずる不動明王に暗示された。
延宝六年(一六七八)十月十日、湛海は数人の弟子と生駒山に入った。村人や郡山藩家老らの援助と協力で翌年正月、五間四面の仮本堂が出来、湛海は念願の八万枚護摩を果たした。寺は当初、大聖無動寺と号した。

 

法起寺再興の真政圓忍律師と湛海律師の結びつきの発見。そして、ここまでくれば、修験の気配が濃厚に立ち上がる。

 

「神々の明治維新神仏分離」によって消されたものたちの気配。

 

そもそも、法隆寺神仏分離の嵐が吹き荒れるまでは真言宗であり、江戸初期には当山派の先達寺だったという記録が残っている。

当山三十六正大先達衆を構成する寺院は若干の移動もありますが,室町時代末から江 戸時代初期頃は,大和の中の川・菩提山実相院・鳴川千光寺・法隆寺・矢田寺・茅原寺 ・金剛山寺・安部寺・信貴山寺・釜口長岳寺・菩提山正暦寺多武峯寺・桃尾寺・三輪山平等寺・内山永久寺・超昇寺・高天寺・霊山寺吉野桜本坊・松尾寺・忍辱山円成寺 ・橘寺・長谷寺紀伊粉河寺・根来寺の東と西・高野山和泉の槙尾山施福寺・神尾 寺・朝日寺・高倉寺・和田寺・牛滝大威徳寺,摂津の丹生寺・河内の鷲尾寺・播磨の朝 光寺,山城の海住山寺浄瑠璃寺・高雄神護寺・伏見寺,近江の飯道寺の梅本院と岩本 院,伊勢の世義寺などが認められます。

 

法輪寺の受付の叔父さんたちに聞いてはみたけれど、ここは修験とは違う、修験ならば松尾寺じゃないですか、との答え。

松尾寺は法隆寺の奥院であり、修験の修行寺だったという説もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

高野山円通寺2世。法隆寺北室院3世。加賀国出身。1609年(慶長14年)生。高野山宝光院で学ぶ。高野山円通寺法隆寺北室院の賢俊良永に師事。1647年(正保4年)円通寺と北室院の両寺を嗣ぐ。1661年(寛文1年)法隆寺覚無庵に隠退。法起寺の復興に尽力。1672年(寛文12年)、弟子の快円恵空から招かれ、律院とする。1677年(延宝5年)閏12月25日、法起寺で死去。存命中の1674年(延宝2年)9月に放光寺に彫像が残る。

2021年2月3日  南山城/ 京田辺 観音寺 (十一面観音を観に行く)

京田辺 観音寺 

 

天武天皇の勅願により義淵僧正が創建した。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれている。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったと伝えられている。 幾度となく火災に見舞われ、永享9(1437)年の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。 現在は、本堂と庭園が周囲の里山に調和し、美しい姿を見せており、春には参道の桜並木や一面に広がる菜の花が、秋には紅葉がひときわ目を引く。

                         (京田辺市観光協会HPより)

 

観音寺ご住職の話によれば、

ここは興福寺の北別院。それだけに、平清盛の南都焼討の際にも焼討に遭ったという。

現在、地理的には京都府だが、歴史的には平城京の北の端になる。

 

 

アウトドアの画像のようです

観音寺遠景。右側に見える石碑は日露戦争の慰霊塔。

背後の森の中には、不動明王像のある水行の場がある。ただ、今は使われている形跡はない。水は枯れている。

(写真は後出)

 

 

 

寺院、アウトドア、木の画像のようです

かつては大伽藍普賢寺であったが、現存するのはこの大御堂だけ。

 

 

地図の画像のようです

 

 

地図の画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

 

さて、観音像を観に行こうか。

 

 

写真の説明はありません。

 

木、アウトドアの画像のようです

 

観音寺十一面観音~美しく優しい仏 | 管理人ブログ

十一面観音立像 天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。

天平16(744)年良弁僧正(ろうべんしょうじょう)開基時の仏像。

                  (京田辺観光協会HP より)

 

奈良・桜井の聖林寺の十一面観音にも似ると言われているが、聖林寺のほど男性的な感じはしない。たおやか。

 

 

 

 

写真の説明はありません。

 

お堂の左端の小さな厨子の中にも小さな十一面さん。

白い十一面さんは白山神社にいた十一面さんではないか、(白山系の十一面さんは白いのだという)、神仏分離のときに白山神社から放り出されたのが救出されてここにあるのではないかというような話をご住職から聞いた。

 

 

イラストのようです

 

アウトドアの画像のようです

 

自然、伏見稲荷大社の画像のようです

明治の神仏分離以前は、この神社は観音寺の鎮守の神。

今は寺から切り離され、天王の朱智神社の管轄となっている。

朱智神社は、神仏分離以前は牛頭天王社。神社のある一帯は天王地区。地名は今も残る。(朱智神社にはこのあと行く)。

 

 

 

アウトドア、、「若 谷 例 を 島 場 社 城 備 経 祭 前 河 刻 覆 観 当 ま 高 現 音 正 明 式 大お れ 在 徳 油 内 国 初 死 十 月 並 元 亀 挙 年 å… 日 現 州 ç”° ç”° 辺 辺 市 文 市 化 教 財 保 護 委 委 å¡ 会会 参 軍 地 田” æ 神~ 社 番 地 比分 売 ç 利 神 果 は る。 堂 現 在 の」というテキストの画像のようです

 

木、アウトドアの画像のようです

 

木、アウトドアの画像のようです

 

木、自然の画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

 

木、アウトドア、、「路 彰 役 念」というテキストの画像のようです

神仏分離以降、近代化以降、国家の宗教体系の枠の中に寺社も人間も組み込まれたあとには、近代戦の犠牲者の碑が神社の境内に立つことになる。

 

慰霊塔の裏には、忠魂碑と刻まれている。

国家に忠義な魂の碑。

アウトドア、記念碑の画像のようです

 

 

さあ、朱智神社に向かう!

 

写真の説明はありません。

カーナビに天王地区の地名が。

ここは牛頭天王のお膝元の地域となる。

 

 

 

木、アウトドアの画像のようです

 

伏見稲荷大社、自然の画像のようです

 

集落の上へ上へ、奥へ奥へと、軽の自動車がやっとの急な細道を登っていくと、現れる。

 

ここは、目に見えないものたちの気配が立ち込める。

  アウトドアの画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

本殿。扉は閉じられ、ご本尊は見えず。残念。

 

 

写真の説明はありません。

 

写真の説明はありません。

最強の疫病神であり、疫病を祓う神である牛頭天王を祀る社というのに、結構弱腰。

アウトドア、木の画像のようです

 

境内には牛頭天王と刻まれた奉納の灯篭。

 

アウトドア、記念碑の画像のようです

 

 

山を下りて、打田地区に行けば、須賀神社

ここもかつては牛頭天王社。朱智神社が遠いので、ここにも牛頭天王社をということで、造られた。 

 

 

アウトドア、伏見稲荷大社の画像のようです

 

アウトドア、、「地 菊 正 例 早 周 花 面 祭 世 物 十 月 頃 十 殿 在 現 控 安 在 永 ç° 辺 年 市 寺 最 南 端 裸 録 営 在 珠 手 e 現 社 村 京 田 市 辺 化 市 財 教 護 育 委 員“¡ 会会 賀 須す 社 命 め 改 あ る 位 体 銃 打 頭 天 隐 え 須 賀が 神 迎 市 社 打 ç° 呂 本 番 地 立« 供 山 城 古 版 之」というテキストの画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

 

立っている、アウトドアの画像のようです

 

 

 アウトドアの画像のようです

 

アウトドア、木の画像のようです

 

木、記念碑、アウトドアの画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

赤の社は春日社

 

アウトドア、木の画像のようです

こちらの社は熊野社。

 

 

木、アウトドアの画像のようです

本殿の背後に八大龍王

アウトドアの画像のようです

 

 

記念碑、アウトドア、、「念」というテキストの画像のようです

須賀神社の脇の階段を降りて行ったところの隅には大東亜戦記念碑。

 

 

 

2021年2月3日  南山城/ 京田辺 観音寺 (十一面観音を観に行く)

京田辺 観音寺 

 

天武天皇の勅願により義淵僧正が創建した。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれている。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったと伝えられている。 幾度となく火災に見舞われ、永享9(1437)年の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。 現在は、本堂と庭園が周囲の里山に調和し、美しい姿を見せており、春には参道の桜並木や一面に広がる菜の花が、秋には紅葉がひときわ目を引く。

                         (京田辺市観光協会HPより)

 

観音寺ご住職の話によれば、

ここは興福寺の北別院。それだけに、平清盛の南都焼討の際にも焼討に遭ったという。

現在、地理的には京都府だが、歴史的には平城京の北の端になる。

 

 

アウトドアの画像のようです

観音寺遠景。右側に見える石碑は日露戦争の慰霊塔。

背後の森の中には、不動明王像のある水行の場がある。ただ、今は使われている形跡はない。水は枯れている。

(写真は後出)

 

 

 

寺院、アウトドア、木の画像のようです

かつては大伽藍普賢寺であったが、現存するのはこの大御堂だけ。

 

 

地図の画像のようです

 

 

地図の画像のようです

 

アウトドアの画像のようです

 

さて、観音像を観に行こうか。

 

 

写真の説明はありません。

 

木、アウトドアの画像のようです

 

観音寺十一面観音~美しく優しい仏 | 管理人ブログ

十一面観音立像 天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。

天平16(744)年良弁僧正(ろうべんしょうじょう)開基時の仏像。

                  (京田辺観光協会HP より)

 

奈良・桜井の聖林寺の十一面観音にも似ると言われているが、聖林寺のほど男性的な感じはしない。たおやか。

 

 

 

 

写真の説明はありません。

 

お堂の左端の小さな厨子の中にも小さな十一面さん。

白い十一面さんは白山神社にいた十一面さんではないか、(白山系の十一面さんは白いのだという)、神仏分離のときに白山神社から放り出されたのが救出されてここにあるのではないかというような話をご住職から聞いた。

 

 

イラストのようです

 

アウトドアの画像のようです

 

自然、伏見稲荷大社の画像のようです

明治の神仏分離以前は、この神社は観音寺の鎮守の神。

今は寺から切り離され、天王の朱智神社の管轄となっている。

朱智神社は、神仏分離以前は牛頭天王社。神社のある一帯は天王地区。地名は今も残る。(朱智神社にはこのあと行く)。

 

 

 

アウトドア、、「若 谷 例 を 島 場 社 城 備 経 祭 前 河 刻 覆 観 当 ま 高 現 音 正 明 式 大お れ 在 徳 油 内 国 初 死 十 月 並 元 亀 挙 年 å… 日 現 州 ç”° ç”° 辺 辺 市 文 市 化 教 財 保 護 委 委 å¡ 会会 参 軍 地 田” æ 神~ 社 番 地 比分 売 ç 利 神 果 は る。 堂 現 在 の」というテキストの画像のようです

 

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神仏分離以降、近代化以降、国家の宗教体系の枠の中に寺社も人間も組み込まれたあとには、近代戦の犠牲者の碑が神社の境内に立つことになる。

 

慰霊塔の裏には、忠魂碑と刻まれている。

国家に忠義な魂の碑。

アウトドア、記念碑の画像のようです

 

 

 

 

 

 

 

中将姫ゆかりの寺  奈良・宇陀市菟田野宇賀志 日張山 成就院青蓮寺

 

奈良市内から、宇陀市菟田野へ。

 

 

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2018年10月 九州(宗像~熊本~鹿児島の旅)

宗像市多禮 字柚木 指来神社

今回、「不知火浄瑠璃(しらぬいじょろり)」公演に招いてくださった 看取りの家「ひさの」の裏手の丘に鎮座する産土神

福岡県神社誌にはこうある。

 

【祭神】 気長足姫命、阿蘇津彦命、大己貴命、高龗神、少彦名命、水波能売命、豊日別命

 
【由緒】 気長足姫命、阿蘇津彦命は此村(元多禮村)の産土神也村民の説に此神は神功皇后異国御征伐の時御旗を司り給ひし神也故に旗指大明神と云しを今は訛りて指来明神と云とも又一説には阿蘇津命を祀るとも云へり旧記伝らずして由緒審ならず。創立不詳、明治五年十一月三日村社に被定。
 
大己貴命少彦名命は本村(元多禮村)の内三重と云ふ所の産土神なり元禄年中池田村の本社より勧請孔大寺神社と云ふ。
高龗神は字井尻より、水波能売神は字岩ヶ鼻より、水波能売神は字上多禮たれ(同祭神二箇所)より、孔大寺神社に合併す。村社指来神社(祭神気長足姫命阿蘇津彦命)は字柚の木、無格社豊日神社(祭神豊日別命)は字岩ヶ鼻に祭祀ありしを、大正五年六月五日許可を得て孔大寺神社に合併、と同時に村社指来神社と改称す。
 
【例祭日】 十月十三日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿
【境内坪数】 六百八十三坪
【氏子区域及戸数】 多禮区 三十五戸
【境内神社】 孔大寺神社(大己貴命少彦名命

 

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社殿のなかの奉納画

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これは多禮の石鎚神社

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当山の歴史

弥勒菩薩 宗像四国東部札所
当区の祖先は、農産物守護のため、当山に弥勒菩薩を建立した。(年代不詳)依って弥勒山と称する。現在は石鎚山とも言う。現在の石祀には、寛政年間再建と記されており、区民の祭日を毎年三月十三日と定め、昭和中期迄御座を続けていた。
今は十三佛の内に合祀している。

石鎚神社 宗像四国東部札所
明治十二年四国石鎚神社を迎え奉る。宗像全郡に信者多く明治四十一年数百名の寄付者により当山の樹木にて現在の拝殿を建立する。以来四国参拝の信者先達を始め一般の参拝者多く今日に至る。
十三佛は大正三年に建立され、霊験あらたかにて御利益を受くる信者多く参拝者の賽銭の一部にて此の碑を建立する。

昭和五十九年九月

 

役行者!! 神社と言いつつ、要はこの地域の修験の根拠地の一つ。

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弘法大師!!

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不動明王をはじめとする仏たち

不動明王の顔が欠け、左腕が落ちているのは、廃仏毀釈の跡だろうか。

いずれにせよ、ここは神社と言いつつも、はっきりと神仏習合の跡を残している。

これらの仏像には大先達〇〇といった寄進者の名も刻まれている。

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宗像市池田 孔大寺神社

 

ここももとは修験。 多禮の指来神社は、もとはこの神社の別院だった。

(神社というから、なにか違和感があるのだが、つまりは多禮のほうも近代以前の神仏習合の信仰の中にあった修験のよりどころだったということ)。

この鳥居の先の遥拝所の裏手には庚申塚がいくつか。

 

孔大寺神社は明治維新までは孔大寺權現社と呼ばれ、蔵王権現を祀っていた。

以下の説明は、下記ブログより。

http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65708011.html

 

孔大寺山は、かつて大峯山蔵王権現(開祖役小角)を奉祀する金峰山修験(吉野山金峯山寺)系の山で、神仏習合の孔大寺神社上宮(旧孔大寺權現社)がある。
 また、指來神社の北東600mに薬師如来弥勒菩薩を安置した多禮「極楽寺山(弥勒山)」(現・石鎚山修験系「石鎚神社」鎮座)がある。
 また、岩ケ鼻(同北西500m)にはかつて「豊前坊豊日神社(現指來神社に合祀)」(英彦山修験系)が鎮座していた。
 さらに北寄りの峰続き(同1.5km)に真言宗御室派鎮国寺(吉田)が在るなど、低丘陵の占有率が高く耕地面積が少ない多禮地区にはもともと修験道が芽生える地盤があったということなのだろう。
 なお、明治維新政府の破壊的な施策により孔大寺權現(社)、指來大明神(社)、豊前坊(社)等の神名(神社名)等は使用できなくなり、当地における修験道神仏習合的信仰は潰えたが、明治期、極楽寺山(弥勒山)に「石鎚神社」が鎮座した。

 

 

 

 これは梛野薬師堂。

かつて、孔大寺神社に参る道には、多くの宿坊があり、ここもその名残のひとつと聞いた。脇に並ぶは、四国88か所の観音さんたちの一部。

もちろん不動明王もいらっしゃる。

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夕暮れの宗像の海。

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宗像大社奥の院 高宮 神の降臨した場所。

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これは沖ノ島神宿る岩。 藤原新也の写真。

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宗像から鹿児島の途上で、熊本日日新聞を読む。

遠いところほど、弱い者ほど、目に見えないところほど、切り捨てられる

忘れられる、復興の風景。
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鹿児島 鴨池港 鹿屋を目指して出港する。

目的地はハンセン病療養所 星塚敬愛園。

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敬愛園には、八重山出身の入所者の家を訪ねての旅。石垣島からの唄者も一緒。

9年ぶりの再会。彼らは島の唄を聴くことを切望していた。

9年前に訪ねた折に唄者が歌ったものを録音したテープは、もう擦り切れてしまったのだと彼らは言った。 

 

 

 園のはずれにある「敬愛神社」跡を探訪。

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 湿った林の中に社殿の礎石が残っていた。

戦後、いつ取り壊されたのか。

そもそもなんのために、国家に捨てられた人々の暮らす地に国家神道の神社が建立されたのか。

それは、植民地にも必ず建立された神社と軌を一にする性質のものか。

熊本の菊池恵楓園では1941年に貞明皇后の歌碑建立と同時に恵楓神社も建立されている。

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最初の納骨堂跡。

崖の山肌を窟屋のように掘り込んで作ってある。

西本願寺が大いに関わっている。

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骨片を集めて収めた収骨の穴の跡。

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この湿った林の中で、小さなマムシを見つけた。 

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とても近代的な旧火葬場。

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煉瓦造りの初代火葬場。

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熊本 山都町 通潤橋から  緑仙峡・穿の宮へ 2017年9月16日

通潤橋遠景

石牟礼道子『水はみどろの宮』のモデルの石橋を探して、

通潤橋に。

作中の橋は眼鏡橋。だが、水なき山あいの村の水田のために水をもたらした石橋と言えば、ここしかないだろうと。

 

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案内板

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通潤橋の上部 水路は熊本地震で破損し、修理工事中。

よって、本来は立ち入り禁止。

工事関係者の許可を得て、上から橋を見た。

平常時はこの水路の上に土を敷いて歩道になっている。

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布田神社  通潤橋を創ることに尽力した総庄屋布田保之助を祀る。

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通潤魂!!!

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さて、本来は、工事中のため通潤橋上部の方へとは入れなかったのであるが、それを知らずに工事現場まで行き、この地図を見つけた。

「穿の洞窟」とある。

おお、これは石牟礼道子『水はみどろの宮』の「穿の宮』ではないか!!!

と、進路変更、一路、「穿の洞窟」を目指す。 

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【山深い緑仙境】

 

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さあ、穿の宮をめざす!

道で教えを請うた地元の方によれば、この標識のほうへ、車で行けばすぐだと。

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おそるおそる山あいの道、

まだこのあたりはいい、

だんだん道は細くなり、

軽でもいっぱいいっぱいの道幅になってくる

右側は断崖、下は深い谷になっていく。 

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右に行けば、湯鶴葉

左に行けば、内の口、穿の洞窟、

しかし、すぐにでも見えると思った穿の洞窟(穿の宮)は、一向に見えず、車はますます細くなる山道を後戻りもできず、どんどんのぼっていき、はるか下の谷に落ちるのではにかという恐怖とともについに山道の頂上へ。

ちょうど大雨のあとで、道は土砂とともに流れ落ちてきた石がごろごろ、流れ落ちてきた木も道にはみ出て、しかも路肩は緩くていつ崩れるかもわからない、それは実にインディジョーンズのような道のり。

この道は後々地図で調べましたが、100パーセント車道ではありません。

絶対に車では行ってはなりません。

あんまり恐ろしくて登り切った場所の写真を撮れなかったのだけど、

その深い山中に農業の為の倉庫らしきものがあり、2~3基の立派な墓も。

山中の部落をふと思う風景でした。

あとから、このあたりのサンカのことを調べるきっかけとなる風景でした。

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死ぬ思いでかなり下まで山道を戻ってきて、地元のお爺さんに尋ねたら、

山道の途中、左手、公衆便所のあるところが穿の宮への降り口と教えてくれた。

穿の宮は、谷底の沢のほとりに立つという。

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鳥居が見えてきた。沢の音がする。

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なんと、

「水はみどろの宮」は、「穿の宮」のまた別の名「緑の宮」からきているのではないか!

しかも、

この緑の宮は百合若大臣の愛鷹緑丸を祭ったと、ここにも「百合若伝説」!

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穿の宮のご神体は、本来、沢の向う側にある穿の洞窟だろう。

この洞窟は宮崎に通じているという伝説がある。

石牟礼さんは、ここからインスピレーションを得て、

穿の宮の底には、肥後と日向にまたがる地底の湖があるとした。

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最近はこちらの案内板

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穿神社の社殿から、穿の洞窟を望む。

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こんなに大きな洞窟!

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洞窟から社殿を望む。

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いかがわしい山伏、祈る。

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洞窟の奥の行方はわからない。

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洞窟から見る沢の風景。

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上流を見る。

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水の音。

www.youtube.com

足尾銅山観光

足尾銅山に向かうあかがね街道から渡良瀬川を見る。

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あかがね街道から足尾の山々を見やる。

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足尾銅山観光は、トロッコ電車で坑内に降りてゆく。

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水のしたたりおちる坑内。

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坑内神社。

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<銅山の町 小滝>

 

 

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銀山平社宅跡>f:id:omma:20171226114314j:plain

 

家も人もない、現在の銀山平

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<本山神社跡> 

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