13年ぶりに福島 広野町に行った。そして、震災当時、津波で流されてしまっていた姥嶽蛇王神社へ。

広野駅は、かつては、昔ながらの味わいのある駅だった。
震災直後は当然のことながら、鉄道は不通で、町に人影はなく、線量計は高い数値を示し、原発から20キロ圏内は立入禁止で、原発作業員ばかりの町だった。
13年ぶりの広野駅はずいぶんと立派になったが、(旧駅舎は新駅舎の向こう側に残されている)、1時間に1本ほど駅に滑り込む電車に乗っている人も少ない。
避難した人びとは、ぼちぼちと帰ってきているようではある。が、他の原発事故被災地地域と同様、今、もここに暮らす人の多くは原発作業員なのだという。
広野もまた、大熊や双葉や富岡や浪江のように、永遠のデブリ取り出し作業、廃炉作業のための原発労働者の町でもあるのだろう。
ドローンだの、ロボットだの、水素エネルギーだの、技術の軍事転用がちらつく復興計画イノベーションコーストに飲まれてゆく町と人……。
百年前の関東大震災からこのかた、復興というのは、民の暮らしの復興ではなく、国家と資本にとっての旨味のある都市開発を指すわけで、
緊密かつ親密な村共同体のつながりは断ち切られ、人々は分断され、風土に根ざして生きていた暮らしの形も破壊され、バラバラの個が復興という美名のもとに、国家や資本の都合でいいように使われ、捨てられ、あしらわれてゆく、そんな現実が日々進行しているのが、ここ福島であり、日本であり、実のところは新自由主義と植民地主義が跋扈するこの世界の本質なのだということをひしひしと感じる。
どんな土地にも、その土地の人びとの共同体の芯になるような存在がある。 それを神と呼んでもいいのだが、それは草木や水や風の化身のような存在であり、 いわゆる記紀神話の神々のような国家の体系に即した神々とは異なるもので、 13年ぶりに訪れた広野で、そのような神の祠を私は訪れた。
震災直後は、津波に流されてしまって、訪ねることがかなわなかった姥嶽蛇王神社。
かつては姥嶽権現堂と呼ばれていたという。蛇王(じゃおう)は蔵王(ざおう)権現を指すものであったのだろう。姥嶽も蔵王も蛇(=龍)との関わりは深い。いずれにせよ神仏習合の神であり、明治の世にこの海辺の権現堂は神社に置き替えられたのだろうか。
さて、広野駅から海に向かって10分ほど歩けば、波打つ断崖の上の姥嶽蛇王神社にたどりつく。
このとき、午前6時半。人通りはほとんどない。
橋の先に姥嶽蛇王神社はある。

橋の左側には海が広がる。

前方に鳥居と祠が見える。

祠は海の方を向いているが、鳥居は海に対して横向きに立っている。鳥居の脇には「奥州日の出の松」。そもそもは「奥州血の出の松」と呼ばれたらしい。そこには「山椒太夫」伝説が関わっている。

鳥居も、祠を覆う建物は新しい。以前のものは津波で流され、この地に遷宮されたと案内場にはあるけれど、以前の場所は陸前浜街道沿いにあったということしかわからない。

この小さな祠に姥嶽蛇王明神は鎮座している。

木彫りの人形には「疫病退散」と書かれている。小さな祠には龍が彫りこまれている。

そして、祠の後ろにもう一つ、石の祠。後ろ戸の神のように鎮座。もともとの土地神なのかもしれないが、詳細はよくわからない。

大小4つの石。一番大きな三角形に石に「祖先累代々之墓」とある。これは、墓石をこの地に寄せたもので、もともとここに在ったのではないように思われるが、確かなことはわからない。

これは蛇王神社 日之出松 石鳥居玉垣建立紀念碑。今は鳥居のみ。玉垣はない。

そして、奥州日之出松(血之出松)! この木が三代目だそう。


さて、案内板に書かれているのは、この地に伝わる「山椒太夫」伝説。
なかでも乳母の姥嶽にまつわる物語。
【奥州日之出の松と竹女物語】
『永保3年(930年ほど昔・白河天皇の時代)のころ、浅見川村(現広野町)の豪農鈴木忠左衛門家に生まれた竹女(たけじょ)は15歳で大きな農家に嫁ぎ、女の子にも恵まれ幸せな日々を送っていました。
しかしこの愛娘が6歳の時天然痘で亡くなり、他人の保証をして失敗した夫は自害するなど、愛する二人を失った竹女は失意と落胆のあまり真剣に仏門へ帰依することを考えますが、義理ある人の世話を断りきれず、岩城判官平正道(たいらのまさみち)に仕えたのは28歳のときでした。
この年に安寿が生まれ、2年後に厨子王が生まれます。
竹女は心底真心込めて二人の養育に努めました。
その後平穏な日々が続きますが、あるとき正道は逆臣のだまし討ちで殺害され妻や子どもたちまで命を狙われることになります。
妻(28歳)と安寿(12歳)厨子王(10歳)は竹女と共に追っ手を逃れながら朝廷に訴えるべく京都へ向け旅に出ます。
明治の文豪森鴎外の著書『山椒太夫』はここから始まっています。
山本太夫という悪者にだまされ人買いに売られた4人は直江の浦(新潟県)で離れ離れにされてしまいます。
我が子の生まれ変わりのように慈しみ育ててきた安寿と厨子王を乗せた船が見る見る遠ざかって行くその時、竹女は船頭にしがみつき何度蹴倒されても船を戻すよう懇願しますが船頭は聞く耳を持ちません。
とうとう力尽きた竹女は「もはやこれまで奥方様ごめん下さりませ」と言うと自ら海へ身を投げてしまいました。
この時竹女の胸を去来したのは、奥方と二人の子どもを守ることのできなかった責任感と人の世の無情に対する絶望感、そして幼くして亡くなった愛娘の面影だったのではないでしょうか。一方、そのような竹女の悲しいできごとを知る由も無い浅見川村では、五月のある日のこと、それまで雲ひとつ無く晴れわたっていた空がにわかに掻き曇り、これまで経験したことも無い激しい雨と雷鳴にみな恐れおののきました。そして急に水かさが増え真っ黒に濁った浅見川の河口が異常に盛り上がったと思った瞬間、赤・青・黄・紫・金・銀といった多くの色が綯い交ぜになったような大きな蛇が水面を飛びはね、空を飛んで河口近くに在った鈴木忠左衛門家の松の大木に絡みつきました。
これを不吉なことと思った鈴木家また村人は、この松の大木を切り倒してしまいました。するとその切り口からは人間の血のようなものが流れ出ました。
村人たちが竹女の悲報を知ったのはその後でありました。
鈴木家と村人は竹女の死を悲しみ、その霊が大きな蛇となってふるさと生家の松に戻ったものと信じ「姥嶽権現堂(うばたけごんげんどう)」と「蛇王神社」を建立してその霊をねんごろに弔いました。
その後この切り倒された木の根元に芽吹いた松が成長して立派な松の木となりますが、村人はこれを「血の出の松」と呼んだそうです。
白砂青松、陸前浜街道の浅見川河口に在る優美なこの曲松に、大海原から昇る朝日が懸かる風情はまさに一幅の絵を観るようだと賞賛され、やがて『奥州日之出の松』と呼ばれるとともに、『尾上の松』『高砂の松』とならび日本三名松の一つに数えられるようになりました。このように伝説と共に守り育ててきた日之出の松は打ち続く海岸の浸食と病害虫の被害により枯渇し、平成16年に伐採処分されました。
しかし関係者の努力によりその子孫の苗を育成し、平成28年7月に三代目の日之出の松として定植するとともに、東日本大震災により被災した竹女を祀る姥嶽蛇王神社の遷宮を行いました。令和元年7月吉日
安寿と厨子王、その母と姥嶽が人買い船に売られた上越・直江の浦(直江津)にも姥嶽伝説があります。姥嶽明神を祀る祠もある。直江の浦では、海に身を投げた姥嶽はすぐに大蛇に変化して、安寿と厨子王一行を人買い船に売った山岡権太夫の乗る舟をぎりぎり締めあげて木っ端みじんにして、山岡を殺してしまう。
説経「山椒太夫」を下敷きにした「姥嶽伝説」ですね。
そして、ここ広野でも。
姥嶽明神を祀ったり、権現堂に姥嶽権現を祀ったり、あるいはその謂れを語ったりした人たちがもちろんいるわけで、まあ、そういう人たちが日本の各地にある、風土に根付いたご当地「山椒太夫」を生みだしたのでもあって、それは芸能者としての修験者であったり、旅する山伏祭文語りであったりしたのでありましょう。かつて、みながよく知る物語を乗っ取る形で土地土地の物語りが生まれた風景を、私は想い描いている。
たった一つの近代という、しかも、もう伝説でも未来の夢でもない原発を手放そうとしない近代という大きな物語に乗っ取られてしまった地で、
復讐の大蛇となって海を走る姥嶽、あるいは深い怨みとともに松の木に巻き付く大蛇となる姥嶽、そして一個の風土の神となる姥嶽を、いまいちど私は呼び戻したいと思っているんです。
おーい、姥嶽!!!
これは、ミカンの丘から見下ろす広野町。

「日本一美しい日の出の町」を宣言するこの町にも、もちろん線量計。

八百比丘尼の旅 いのちをめぐって 抜き書き
もし、わたしが子を産んでいなかったなら、こんな形で日本海の浜辺をさまよったかどうかわからない。まるで民族の深層心理をたずねたがるかのような、あてもない旅などしなかったかもしれぬ。子をみごもっていた時の、ふしぎな知覚は予想もしないことだった。(『海路残照』p150)
まだ人としては存在せぬ胎内のいのちと共に、いまここに在るわたしは何なのか。
かつて日本人は出産に対しても、それを不浄視して禁忌した時期だけでなく、もっと自然な肯定的なとらえ方をしていた時があるのではあるまいか、近代化は産の禁忌をうすれさせたが、古代人が持っていた生命観を越えるほどの産みの思想はまだ持てないでいるのではなかろうか。(p153)
生命には、みごもりの季節があり、人びとも生まれ、産み、そして消滅するものとしてとらえられているかに、海の女神の諸伝承はわたしにきこえるのである。
(中略)
海神信仰が神道からうすれるとともに、人の世の秩序に対する幻想は、ひとつの肉体にふたつの霊魂というが如き妊婦の感性と発想を、秩序体制の外に置くことで完結するものとなったのだろう。それは妊婦にかぎらず、たとえば遊女という、おもむくままに性をたのしむ女を編戸の民の外に置いて秩序幻想を保ったように。が、その幻想は少女期をすぎた女をまるごと枠外にはずすことで成立する、きわめて肉体的な、単一性による共同幻想にほかならない。(p156)
八百比丘尼の消える地帯。それはあらたな産みの思想がひろがっている地域にちがいない。おそらくその生殖や出産の信仰は西方のそれと同じように、地下に埋もれていることだろう。けれども庶民の死生観の中には、まだよごされぬまなざしは残っているかもしれないのだった。わたしは玄界灘からはるばると旅させられた長寿の海女話が、異神のなかでとまどいつつ、しかしようやく納得のいく異文化をみつけていのちを終えたかに空想してみたりする。わたしの心は異神に会いたくなっているのだった。(P163)
石垣島 「標準語行進曲」をめぐって/1939年 石垣小学校学区内を大行進
石垣小学校

参考) 「月刊やいま」1999年6月号より
標準語励行運動
昭和11年9月、県下校長会において、県学務部から諮問があった「現下の状勢に鑑み標準語を一層普及徹底せしむる具体的方案如何」に対して審議がなされ、後日「国語愛護国語尊重の精神を徹底を計ること」「標準語使用習熟の機会を多からしむこと」「レコード・映画の鑑賞をなさしむること(但し標準語普及に障碍を来すレコードの鑑賞を禁ずること)」「家庭に於いても標準語使用を励行すること」等の答申がなされた。また県社会課が募集した標準語普及標語には、小学生の「いつもはきはき標準語」「沖縄を明るく伸ばす標準語」「よい子はいつも標準語」「一家そろって標準語」が当選した(先嶋朝日新聞・昭和14年8月27日)。八重山でも学校から標準語励行運動が始まり、役所・家庭・地域全体へと広がっていった。
そのトップを切ったのは、石垣小学校である。標準語指導として、
一、校の内外を問わず、児童同志は必ず標準語を使用すること
一、感嘆詞であっても方言は許さざること
一、故意でなく不用意の間に発する方言でも許さざること
一、知らざるがために方言を使用することも許さざること
を決めた。「標準語の使用励行は、東亜の盟主とならんとする現時局から考えても、国策に沿うもの」(海南時報・昭和14年4月29日)と支持された。そして同校は標準語行進曲を制定、学区内を大行進した。歌詞は5番まであり、1番は次の通りである。
御代は昭和だ 興亜の風だ 僕等は明るい 日本の子供 けふもニコニコほがらかに 言葉ははつらつ 標準語
その翌年、昭和15年に日本民芸館の柳宗悦が来県し、沖縄県の標準語励行運動は行き過ぎと批判し、沖縄文化の再認識・再評価を説き、県学務部との論争へと発展。論争は中央(東京)にまで飛び火した。
石小で標準語励行運動の先頭に立った桃原用永は、戦後「標準語励行運動は八重山の文化(方言)を否定したものではなかった。子どもたちの命を守るためだった。軍国主義の世の中で方言をしゃべると、スパイとみなされたり素行が悪いということで二等国民と称され、殴られたり、ひどいときには死に至らされる。子どもを守るためにやむを得なかった」と話した。
実際、沖縄戦の末期、日本軍は「方言を使うものはスパイとみなす」と通達を発し、事実、処刑された者も多い。












































