2021年9月19日 南三陸 田束山~入谷・神行堂山~ひころの里
田束山
入谷 神行堂山
ひころの里 入谷郷土資料館
入谷の月
気仙沼 大島
2021年9月19日 朝七時半、気仙沼大島大橋を渡って大島へ
横沼 地震碑
龍舞崎に向かう道の傍らに。
昭和8年3月3日の大地震と津波の碑。
「大地しんそれつなみ」と刻まれている。
龍舞崎。
復興国立公園とある。
以前は、金華山国定公園だったと地元の人。以前のままでよかったのに、とも。
龍舞崎の道祖神の社
[
小田の浜から対岸の唐桑半島を望む。
時間があれば、かつては捕鯨で大いに賑わったという唐桑の鮪立に行ってみたかった。
浪切さんは、津波除けの神様
計仙麻大島神社。
この神社の周囲の山は、震災時、流れ出た重油のために燃え上がった湾内の火が飛んできて、山火事になったのだという。
ふと、顔をあげたら、山から神社の方へと降りてきた一匹の鹿と目があった。
カメラを向けたら、くるりと向きを変えて山へと戻っていった。
田村三代記の旅 その3 「宮城 涌谷 箟峯寺」
無夷山箟峯寺
(夷の無い山って、すごい名前·········)
奥州三十三霊場第九番札所として有名。
古来殺生禁断、女人禁制の聖地だった。
大門から一歩ふみこめば、罪人も捕らえられなかったと言われ、ただ一つの村外地だったという。
(近くの小学校は白山箟岳小学校。これもすごい名前だ。
ちなみに寺の直ぐとなりは観光センターで、直ぐ近くにゴルフ場。)
箟岳観音は奥州三観音の一つ。
大同2年(807年)坂上田村麻呂建立と伝えられ、本尊は十一面観音像(秘仏)。 三十三年に一度ご開帳とのこと。
今日は午後5時前に寺にたどりついたのだが、午後4時半で拝観は終わりと、ご住職はいたけれど、本堂の扉はピシャリと閉められて、しかたなく広い境内をぐるりと歩き、眼下に広がる登米の町を見下ろし、
こんな奥州の外れの地まで勧進に来たという奈良からの勧進聖たちの遥かな足跡をしのんだ。
台風の名残の雨が降っていた。
山門に微笑み仁王
日清 日露 第二次大戦の忠魂碑
閑さや 寺社にしみ入る 国の音
白山堂
箟宮跡
征服者の眼差し。
秋の山唄
箟岳を下れば、もう日暮れ。一路、気仙沼へ。
奥州涌谷の 箆岳さまは
山子繁盛の 守り神
気になる気になる お山の狐
これほど待つのに なぜコンと鳴く
田村三代記の旅 その2「宮城 赤沼 染殿神社」から「伊豆佐比賣神社」
染殿神社
伊豆佐比賣神社 (九門長者屋敷跡)
京都 七条朱雀 権現堂~ 老ノ坂 首塚大明神 ~ 亀岡 穴太寺
七条朱雀 権現堂
参道に源為義の墓 7月30日が為義の命日だと聞いた。(今日は奇しくも7月30日)
門を入って右手のお地蔵さん。
門から見て正面、地蔵堂。
身代わり地蔵は8月半ばの御開帳の時でないと拝観できない。残念。
この由緒書に書かれていることを、わかりやすくまとめるならば、
鎌倉時代末には存在していたらしい弥陀林寺(現在の権現寺)が、室町時代に衰退。その再興のために「山椒太夫」に便乗して、「火印地蔵菩薩譚(津子王物語)」を説いて地蔵講を行って、権現堂のご利益を弘め、寺を再興したということ。再興は1596年(慶長元年)。
さらに ↓ の由緒書を読めば、そもそも弥陀林寺には権現堂はなく、
そもそもは、都の西端を守る歓喜寿院の境内に祀られていた勝軍地蔵の堂宇が権現堂と称されていて、その歓喜寿院が室町時代に荒廃し、権現堂のみが残った。それが弥陀林寺に譲られた、という経緯があったということ。
七条朱雀から 老ノ坂峠を越えて、
亀岡・穴太寺へ
(この道は、丹後由良から京へと逃げてゆく厨子王がたどった道。それを京都側から逆に走っている。この道を国分寺の和尚が厨子王をつづらに入れて背負って歩いた)
老ノ坂峠
トンネル脇の左側の旧道に入る。
さらに左に進めば「山城」と書かれていた。
右に行けば、老ノ坂峠(旧道)を越えて、「亀岡」。
亀岡 穴太寺
厨子王丸肌守御本尊
安寿と厨子王丸の悲話の伝説に語られる厨子王丸肌守御本尊をおまつりしています。 2人が山椒太夫に捕らえられ、過酷な責めを受けた時、その苦しみを代わりに受けてくださった仏様といわれています。 安寿が厨子王丸を逃がし都へ上る途中、厨子王丸をかくまった寺の一つが穴太寺だったといわれ、のちに、厨子王丸はこの肌守御本尊を穴太寺に奉納し供養したと伝えられています。
この守り本尊は、大人の小指の半分くらいの大きさ。