石垣島 「標準語行進曲」をめぐって/1939年 石垣小学校学区内を大行進

石垣小学校 

 

 

参考) 「月刊やいま」1999年6月号より

標準語励行運動

 昭和11年9月、県下校長会において、県学務部から諮問があった「現下の状勢に鑑み標準語を一層普及徹底せしむる具体的方案如何」に対して審議がなされ、後日「国語愛護国語尊重の精神を徹底を計ること」「標準語使用習熟の機会を多からしむこと」「レコード・映画の鑑賞をなさしむること(但し標準語普及に障碍を来すレコードの鑑賞を禁ずること)」「家庭に於いても標準語使用を励行すること」等の答申がなされた。また県社会課が募集した標準語普及標語には、小学生の「いつもはきはき標準語」「沖縄を明るく伸ばす標準語」「よい子はいつも標準語」「一家そろって標準語」が当選した(先嶋朝日新聞昭和14年8月27日)。八重山でも学校から標準語励行運動が始まり、役所・家庭・地域全体へと広がっていった。
 そのトップを切ったのは、石垣小学校である。標準語指導として、
 一、校の内外を問わず、児童同志は必ず標準語を使用すること
 一、感嘆詞であっても方言は許さざること
 一、故意でなく不用意の間に発する方言でも許さざること
 一、知らざるがために方言を使用することも許さざること
 を決めた。「標準語の使用励行は、東亜の盟主とならんとする現時局から考えても、国策に沿うもの」(海南時報昭和14年4月29日)と支持された。そして同校は標準語行進曲を制定、学区内を大行進した。歌詞は5番まであり、1番は次の通りである。

 

御代は昭和だ 興亜の風だ 僕等は明るい 日本の子供 けふもニコニコほがらかに 言葉ははつらつ 標準語


 その翌年、昭和15年に日本民芸館の柳宗悦が来県し、沖縄県の標準語励行運動は行き過ぎと批判し、沖縄文化の再認識・再評価を説き、県学務部との論争へと発展。論争は中央(東京)にまで飛び火した。
 石小で標準語励行運動の先頭に立った桃原用永は、戦後「標準語励行運動は八重山の文化(方言)を否定したものではなかった。子どもたちの命を守るためだった。軍国主義の世の中で方言をしゃべると、スパイとみなされたり素行が悪いということで二等国民と称され、殴られたり、ひどいときには死に至らされる。子どもを守るためにやむを得なかった」と話した。
 実際、沖縄戦の末期、日本軍は「方言を使うものはスパイとみなす」と通達を発し、事実、処刑された者も多い。