斑鳩「十一面観音」散歩 法輪寺 ~ 牛頭天王社(今は大神宮というらしい)~法起寺
まずは法輪寺。
この寺は妙見信仰の寺。
寺の背後の山に妙見さんを祀る祠がかつてはあった。
十三所宮もあった。
寺の東側に牛頭天王社もあった。
(と、江戸時代に描かれた法輪寺の絵図にはある)
ご住職曰く、法輪寺はこの土地の産土を祀る寺だったと。
現在の境内にある三重の塔、妙見堂、講堂は昭和になっての再建。
ご本尊の薬師如来は飛鳥仏。
かつての牛頭天王社を訪ねてみることにする。
大神宮」「郷内安全」 とある。 「おかけ」とある。
かつての牛頭天王社は、手入れはされているけれど、牛頭天王の牛の字もない、
知らずにくれば、祭神がなんなのかもわからない、静まりかえった社。
ここから法輪寺に向かう。
法輪寺は平安時代より法隆寺の傘下に入り、今は法隆寺の管理下の無住の寺。
3メートル以上の十一面さんはなかなか素敵。
ここは江戸初期に真言律宗の中興の祖とでもいうべき真政圓忍※とその弟子たちによって
延宝6年(1678年)には三重塔が修復されている。
元禄7年(1694年)には講堂が再建され、文久3年(1863年)、聖天堂が建立されている。
※ 和泉国大鳥郡にあった真言律宗寺院神鳳寺(じんぽうじ)は、近世の戒律復興運動の拠点。大鳥神社の神宮寺。真政圓忍はその1世。そして、また、高野山円通寺2世。法隆寺北室院3世。
加賀国出身。1609年(慶長14年)生。高野山宝光院で学ぶ。高野山円通寺・法隆寺北室院の賢俊良永に師事。1647年(正保4年)円通寺と北室院の両寺を嗣ぐ。1661年(寛文1年)法隆寺覚無庵に隠退。法起寺の復興に尽力。1672年(寛文12年)、弟子の快円恵空から招かれ、律院とする。1677年(延宝5年)閏12月25日、法起寺で死去。存命中の1674年(延宝2年)9月に放光寺に彫像が残る。
十一面さんが収蔵されている収蔵庫には、不動明王も収められている。
真言律宗、聖天さんとくれば、生駒の寶山寺をおのずと思い起こすのだが、寶山寺の湛海律師について、寶山寺HPにはこうある。
生駒山は大昔から神や仙人のようなお方が住む山と周辺から仰ぎあがめられ、巨巌や奇石、幾つかの窟から成る魁偉な姿の般若窟は、寺伝によれば、役行者が梵文般若経を書写して納め、弘法大師も若いころ修行された。
今から三百数十年前、伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師(一六二九~一七一六)は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。
その後、京都に歓喜院を建て、独立した。しかし、ある日訪れた円忍律師の教えを受け、堺・神鳳寺(現、大鳥神社)で律師に戒を授かり、真の仏法とは何かを求めることに目覚めた。そして、道場だけの行に飽き足らず、大和葛城山麓の山林で千日不出の木食行を続け、その千日目近く、我が行を完成するにふさわしい山として「生駒山の存在」を、念ずる不動明王に暗示された。
延宝六年(一六七八)十月十日、湛海は数人の弟子と生駒山に入った。村人や郡山藩家老らの援助と協力で翌年正月、五間四面の仮本堂が出来、湛海は念願の八万枚護摩を果たした。寺は当初、大聖無動寺と号した。
法起寺再興の真政圓忍律師と湛海律師の結びつきの発見。そして、ここまでくれば、修験の気配が濃厚に立ち上がる。
「神々の明治維新/神仏分離」によって消されたものたちの気配。
そもそも、法隆寺は神仏分離の嵐が吹き荒れるまでは真言宗であり、江戸初期には当山派の先達寺だったという記録が残っている。
当山三十六正大先達衆を構成する寺院は若干の移動もありますが,
室町時代末から江 戸時代初期頃は,大和の中の川・菩提山実相院・鳴川千光寺・ 法隆寺・矢田寺・茅原寺 ・金剛山寺・安部寺・信貴山寺・釜口長岳寺・菩提山正暦寺・ 多武峯寺・桃尾寺・三輪山平等寺・内山永久寺・超昇寺・高天寺・霊山寺・吉野桜本坊・ 松尾寺・忍辱山円成寺 ・橘寺・長谷寺,紀伊の粉河寺・根来寺の東と西・高野山, 和泉の槙尾山施福寺・神尾 寺・朝日寺・高倉寺・和田寺・牛滝大威徳寺,摂津の丹生寺・ 河内の鷲尾寺・播磨の朝 光寺,山城の海住山寺・浄瑠璃寺・高雄神護寺・伏見寺, 近江の飯道寺の梅本院と岩本 院,伊勢の世義寺などが認められます。
法輪寺の受付の叔父さんたちに聞いてはみたけれど、ここは修験とは違う、修験ならば松尾寺じゃないですか、との答え。
松尾寺は法隆寺の奥院であり、修験の修行寺だったという説もある。
高野山円通寺2世。法隆寺北室院3世。加賀国出身。1609年(慶長14年)生。高野山宝光院で学ぶ。高野山円通寺・法隆寺北室院の賢俊良永に師事。1647年(正保4年)円通寺と北室院の両寺を嗣ぐ。1661年(寛文1年)法隆寺覚無庵に隠退。法起寺の復興に尽力。1672年(寛文12年)、弟子の快円恵空から招かれ、律院とする。1677年(延宝5年)閏12月25日、法起寺で死去。存命中の1674年(延宝2年)9月に放光寺に彫像が残る。