京都 七条朱雀 権現堂~ 老ノ坂 首塚大明神 ~ 亀岡 穴太寺

 

 

七条朱雀 権現堂

 

f:id:omma:20210730110049j:plain

 

 

参道に源為義の墓 7月30日が為義の命日だと聞いた。(今日は奇しくも7月30日)

f:id:omma:20210730105907j:plain

 

f:id:omma:20210730105822j:plain

 

 

門を入って右手のお地蔵さん。

f:id:omma:20210730105530j:plain

 

 

門から見て正面、地蔵堂

身代わり地蔵は8月半ばの御開帳の時でないと拝観できない。残念。

f:id:omma:20210730105546j:plain

 

 

f:id:omma:20210730103513j:plain

 

この由緒書に書かれていることを、わかりやすくまとめるならば、

鎌倉時代末には存在していたらしい弥陀林寺(現在の権現寺)が、室町時代に衰退。その再興のために「山椒太夫」に便乗して、「火印地蔵菩薩譚(津子王物語)」を説いて地蔵講を行って、権現堂のご利益を弘め、寺を再興したということ。再興は1596年(慶長元年)。

 

さらに ↓ の由緒書を読めば、そもそも弥陀林寺には権現堂はなく、

そもそもは、都の西端を守る歓喜寿院の境内に祀られていた勝軍地蔵の堂宇が権現堂と称されていて、その歓喜寿院が室町時代に荒廃し、権現堂のみが残った。それが弥陀林寺に譲られた、という経緯があったということ。 

f:id:omma:20210730105600j:plain

f:id:omma:20210730105723j:plain f:id:omma:20210730105715j:plain

 

f:id:omma:20210730105729j:plain

 

f:id:omma:20210730105630j:plain

 

 

f:id:omma:20210730105613j:plain f:id:omma:20210730105620j:plain

 

 

七条朱雀から 老ノ坂峠を越えて、

亀岡・穴太寺

(この道は、丹後由良から京へと逃げてゆく厨子王がたどった道。それを京都側から逆に走っている。この道を国分寺の和尚が厨子王をつづらに入れて背負って歩いた)

 

f:id:omma:20210730113506j:plain

 

 

 

老ノ坂峠

 

f:id:omma:20210730113720j:plain

 

 

トンネル脇の左側の旧道に入る。

つきあたりを左に行けば「首塚大明神」。酒呑童子首塚

さらに左に進めば「山城」と書かれていた。

右に行けば、老ノ坂峠(旧道)を越えて、「亀岡」。

f:id:omma:20210730115453j:plain

 

f:id:omma:20210730114343j:plain

 

f:id:omma:20210730114842j:plain

 

 

f:id:omma:20210730114655j:plain

 

f:id:omma:20210730114813j:plain

 

f:id:omma:20210730115655j:plain

 

f:id:omma:20210730115720j:plain

 

 

亀岡 穴太寺

f:id:omma:20210730130132j:plain

f:id:omma:20210730130226j:plain

 

f:id:omma:20210730130511j:plain

 

厨子王丸肌守御本尊
安寿と厨子王丸の悲話の伝説に語られる厨子王丸肌守御本尊をおまつりしています。 2人が山椒太夫に捕らえられ、過酷な責めを受けた時、その苦しみを代わりに受けてくださった仏様といわれています。 安寿が厨子王丸を逃がし都へ上る途中、厨子王丸をかくまった寺の一つが穴太寺だったといわれ、のちに、厨子王丸はこの肌守御本尊を穴太寺に奉納し供養したと伝えられています。

 

この守り本尊は、大人の小指の半分くらいの大きさ。

f:id:omma:20210730131243j:plain

 

 

f:id:omma:20210730132833j:plain