足尾 磐裂神社のこと メモ
磐裂神社は、庚申山への入口、一丁目に位置する。
庚申山は修験の山。山頂には猿田彦が祀られる。
磐裂神社は、地元では「妙見さん」と呼ばれる。
大同3年の創建とされる。
これは、<鉱山と修験と大同>の連関の問題を想起させる社!。
cf) 『東北学/忘れられた東北』(赤坂憲雄)の第8章「鉱山で、山の神の代官たちが福音を説いた」より。
「修験者は山の代官として、鉱山の採掘や経営にしたがう山師であり、また、山の神の祭りにさいしては猟師でもあった。遠野の早池峰山妙泉寺は、大同年間、来内村の猟師・藤蔵の手によって建立されたと伝えられる。藤蔵はのちに修験者となった。そして、来内村の金山から採れた金をもって早池峰山の奥宮を建てたとする伝承は、かれが金山師でもあったことを物語っているはずだ」
「列島の各地の鉱山には、開坑を大同2年、また大同年間とする伝承が数多くまつわりついている。
cf) 『山の民川の民』(井上鋭夫 平凡社選書) 『遠野の原風景』(内藤正敏 ちくま文庫)
<栃木県神社庁HPより>
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当神社は、上古妙見天童と称し中古妙見大菩薩と称し近古妙見宮と称せしも、明治四年七月四日付太政官布告の郷社定則の時、磐裂神社と改称せり。
往古、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内、神山文左エ門、齋藤孫兵衛の両祖、交互に霊代を背負い奉り来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。
天安二年八月、御祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数千九百七十三坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。
往昔、足尾郷は中禅寺領なりしも徳川幕府日光に廟を建てるに及び日光領となり一切の支配を受ける。
明暦元年、日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の年篤く釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり。
明治十四年、幣帛共進神饌料進の指定社となる。
明治四十四年三月二十日許可を得て、村社磐裂神社及び境内社五社を前遠下の地より現在の地に移轉せるものなり。
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web上から引用。
「足尾五氏」と言われる一族14人が、(日光から移住したとも伝えられている)妙見宮の分身を拝受し、大同3(808)年に氏神として祀り、後に足尾郷14ヶ村の鎮守となりました。
関東三大妙見様の1つといわれています。
境内には、栃木県銘木100選の大檜の、御神木があります。
当初は、現在の中才浄水場のところにありましたが、浄水場をつくるときにこの地にうつされ、名前も磐裂神社に改められました。
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★磐裂神社には 別当寺として妙見山竜福寺なるものがあったが、足尾銅山の衰微にともない、廃寺となる。
栃木県神社庁HPに、「明暦元年、日光寺社奉行荒井孫兵衛尉秀元、崇敬の年篤く釣鐘一箇を寄進して栄代不朽の重器となせり。」とある釣鐘は、この別当寺の鐘楼に吊るされたのだろうか。
★足尾銅山の衰退とともに廃寺というが、神仏分離令のときのことではないのか? 神社自体は足尾総鎮守であって、名称は変わったが廃絶していない。
この項つづく。
中国人殉難烈士慰霊塔/朝鮮人供養碑
中国人殉難烈士慰霊塔は銀山平にある。巨大。
朝鮮人強制連行犠牲者慰霊碑は、銀山平へと登ってゆく道の左脇、
古足尾橋の手前にひっそり。
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http://edaddeoro.jp/ashiodozan.html より。以下、引用。
太平洋戦争中の日本の鉱山では、多くの外国人が強制的に働かされていた。足尾銅山では257人の中国人(猪瀬建造『痛恨の山河―足尾銅山中国人強制連行の記録』随想舎、1994年)、1444人の朝鮮人(古庄正「足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」『駒沢大学経済学論集』第26巻4号、1995年)、約400人ほどの白人捕虜(足尾銅山労働組合編『足尾銅山労働運動史』1958年)が銅山関連の労働をさせられた。
中国で日本軍の捕虜になった八路軍と国民党軍の捕虜は「俘虜収容所」に入れられた。俘虜収容所は同時に「労工訓練所」の看板を掲げ、俘虜として入った中国人が「労工」と名を変えて収容所から出てきた。彼らが日本に送られ、各地の工場や鉱山で働かせられた。外務省の資料では4万人弱、中国側の資料では5万人以上とされている。栄養状態の良くない収容所で暮らし、食糧事情の悪い日本で働いたため、多くの人の死因は栄養失調による衰弱だった。足尾銅山に送られてきた257人のうち109人が死んでいる。死亡率が4割を超える異常さだ。
朝鮮人労働者も朝鮮半島から連れてこられている。1944年の当時の日本政府の動員計画によると朝鮮半島から29万人の動員が計画されていた。実際に動員された人の総数や、自由意思で日本にやってきた労働者、強制連行された労働者の正確な数字は、今となっては把握がむずかしい。たとえば韓国政府は太平洋戦争の時期に50万人の韓国人が強制的に日本連れて行かれたと主張し、日本政府は自由契約で朝鮮半島から日本に働きに来たと主張している。足尾銅山では70人余りの朝鮮人労働者が死んでいる。
白人捕虜は捕虜収容所で銅山の坑外作業に従事していた。
松木沢:足尾銅山の煙害と山の乱伐で滅びた松木村跡
松木沢をゆく。風が吹いている。風のなかに声が潜んでいる。
沢の両脇の山は、ほぼ丸裸の山。
山には、「治山と砂防で足尾に緑を」というスローガンのボード。
渡良瀬川源流の水神
煙害と木の乱伐の末の丸裸の山。
この状態が明治の世から昭和まで続いていたことに驚く。
銅の精錬時に排出される亜硫酸ガスを技術的問題でそのまま放出していたという。
いったい後始末ということを考えないのだろうか……。
川を右手に見つつ、松木沢をめざして、旧松木村一帯を歩いてゆく。
渇水期の冬の河原は、まるで賽の河原のようだ。
銅鉱石から銅を選別した後のカラミ(鉄分を多く含む残りかす)を捨てたボタ山。
鉄製の網や、木の塀がボタ山の下には置かれているが、
この柔らかい砂丘のような山が雪崩のように崩れ落ちてきたならば、
なんの役に立ちそうもない。
見わたすかぎり、ボタ山。
この黒い山は柔らかい山。砂丘を歩くように靴がめりめりめりこむ。
道の途中、左手に3つの塚が見えた。
これは江戸期の念仏供養塔のよう。
松木沢に向かって左手、山の方に向かって、山の神らしき祠がある。
あんなふうにずたずたにされた山に、まだ神はいるのだろうか。
この祠は文化年間(1804年から1818年)のもの。
来た道を振り返る。
この道には鹿の足跡があった。
川向うの山からは鹿の、キュー、キューという鳴き声。
姿は見えない。
松木村。
江戸後期の記録では37戸170人の村人。
小麦、豆をはじめとする肥沃な共同の畑。養蚕。
銅山に使用する木の乱伐、亜硫酸ガスによる煙害による木の枯死。
そのうえ、山火事までもが重なり、山は禿山となり、土砂は流出。
硬い岩盤だけの無惨な死骸のような山となる。
村人は当時のお金で4万円を受け取って、村を去ってゆく。
そして、村は銅山のゴミ捨て場となる。
NPO法人 森びとプロジェクト委員会により、植林された木々。
村のはずれ。墓石が集められている。
このほか、多くの無縁仏の墓石は、松木沢の手前の竜蔵寺に集められて祀られている。
かつての村はずれ。
左手の山の頂上部分は岩が壁のようにそそり立つジャンダルム。
フリークライミングの名所らしい。
この川のずっと向う、ひと山越えれば、日光。
無縁の墓石で造られた廃村松木村無縁塔。
渡り坑夫の墓。
ある日、竜蔵寺を遠方より先祖の供養をしたいという篤信の方が訪ねてきた際に調べたという、
そのとき開いた明治23年5月中の過去帳には、
「葬式が30回以上もあるが、古くからの檀家のものは一軒もなく、いずれも他国から足尾銅山に流れてきた鉱夫の関係者ばかりで、幼児以下は15人おり、それも死体分娩、乳児がほとんどある。今から百年以上前の発展途上の足尾銅山ゴールドラッシュ時代のことなので無理からぬ事情であろう。
さて、5月の鉱夫たち自身の死亡は16人おり年齢をみると19歳1人、20歳代8人(23歳1人、24歳5人、26歳1人、27歳1人)、残り7人中4人が生年不詳となっているが、おそらく20歳代であったであろう。いずれも、坑内で働いた手掘り坑夫や支柱夫たちであろう。」
足尾鉱毒事件、谷中村滅亡のことを考える時、
その前に渡良瀬川上流の山の死があったこと、
山村の民の離散があったこと、
さらには、ヤマ(銅山)という、地中の無数の死があったこと、
これを忘れてはならないだろう。
目の前の事件は、山と平地を結ぶ川、
命と命を結んでゆく水脈を抜きにして考えることはできない。
そして、山深く潜って命を削っていた者たちのことも。
山と平地を結ぶ命の水脈を断つところから、
そして水脈を死の水にかえるところから、
日本の近代は始まったのだということを、
足尾鉱毒事件は、如実に、象徴的に教える。
参考。 松木村 - Wikipedia
渡良瀬遊水地 ~旧谷中村跡~f:id:omma:20171221221336j:plain
[渡良瀬遊水池]
東京方面に水を送るダムは8つある。渡良瀬遊水池は唯一の平地ダムなのだという。
これは渡良瀬遊水池でもらったダムカード。
。
ここからは、東京都内に数時間で水を送ることができる。
急を要する給水のときには、ここからまず水が送られる。
なるほど、ならば、足尾銅山が原因で起きた渡良瀬川の氾濫による洪水が東京都内まで広がっていくのも、やはりそこ数時間のことなのかもしれない。
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鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。この崩壊は21世紀となった現在も続いている[注釈 1]。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。
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ハートのへこんでいる部分が旧谷中村跡。
洪水を防ぐという名目で、谷中村の土地を強制的に接収して遊水池を作った。
谷中村、成立から消滅まで17年。
旧谷中村役場跡から。
湿地に立地していた谷中村の役場は、盛り土された土地の上に立っていた。
ここから眺める旧谷中村跡は、一面のヨシの原。地面からは、しばらく好天つづきだったというのに、じわーっと水が染み出る。
しばしば洪水に襲われる湿地では、こんなふうな家の造り。
このあたりの粘土は、近代的建造物を造るための赤煉瓦の原料に最適で、また、製造された赤煉瓦を運搬するのに渡良瀬川は非常に便利で、この近くに煉瓦製造会社が設立された。
以下、wikiの記述。
下野煉化製造会社の歴史[編集]
明治21年(1888年)10月、赤煉瓦(レンガ)製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。出資者は、三井物産の三井武之助・益田孝・馬越恭平を中心とし、旧古河藩主土井利与や古河城下の豪商・丸山定之助らも参加した。初代理事長は丸山定之助であった。明治22年(1889年)には、野木村大手箱で赤煉瓦の製造が開始される。隣接する旧谷中村(現在は渡良瀬遊水地)では、原料となる良質な粘土が産出し、思川・渡良瀬川の水運により、製品輸送も容易であったため、煉瓦製造に適した立地であった[1]。
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旧谷中村役場跡から、菖蒲池のほうを臨む。
大野音次郎屋敷跡。村役場の隣。
この近くにさらに村長だった大野孫左衛門の屋敷跡もある。
桑の木が大きく育って立っている。
このあたりは、蚕紙を作って販売していた、と教えてくれたのは、たまたま園内で出会ったガイドのおばあさん。
さあ、谷中村の共同墓地を目指してゆく。
まずは雷電神社跡。
雷電神社跡の小山から眺めるヨシの原。
このヨシの原は、毎年三月に野焼きをする。
東京の環状線の内側の半分の面積があるのだという。全周30キロだという。
野焼きをして虫を殺す。
東日本大震災後2年間は放射性物質の飛散をおそれて野焼きは行われなかったが、大量に虫が発生して、3年後、放射線量を計測したのちに野焼きを再開したのだという。
これもガイドさんの教え。
ヨシを焼くと、その肥沃な湿地にトネハナヤスリが芽生える、そのあとに今度はノウルシが芽吹く、……、やがてヨシが生えてくる。
鉱毒で一度死んだ湿地帯に、今はラムサール条約で守られている絶滅危惧種が生きている。植物も、魚も、虫も。
<トネハナヤスリ> <ノウルシ>
延命院共同墓地。
延命院は真言宗。雷宝山延命院。確かめてはいないけれども、これは雷電神社と1セットだったのかもしれない。修験関係での要調査項目。
共同墓地。墓石をここに残した村人がいる。村をけっして捨てない、忘れないという意思表示。
この墓石には、正徳(1711~1716)、享保(1716~1736)といった年代が刻まれている。谷中村に統合された旧古川村の村人の墓石。
これは旧谷中村史跡を守る会が立てた「為谷中村有縁無縁一切精霊」塔。
ガイドさんが共同墓地手前の道で見つけて拾ってきた死せる野ネズミ。延命院跡にそっと置かれた。
共同墓地脇には、庚申塚と十九夜の石塔。
庚申塚は庚申講。男連中が60日に一度めぐってくる庚申の日の夜に集まり、三尸の虫が日ごろの悪事を天帝に告げぬよう、夜通しの会。
十九夜は女たちの念仏講。
十九夜の石塔は7基あったのに、4基盗まれたとガイドさん。
下野 都賀郡下宮邑内 古川・鎌立両村講中。とある。
旧谷中村共同墓地には庚申塚1基、十九夜石塔3基のみだったが、遊水池入口にある共同慰霊碑のところには、それぞれ軽く10基を超える庚申塚、十九夜石塔が無造作に置かれている。
それは、旧谷中村がけっして貧しい村ではなかったことの証左でもある。庚申講、十九夜念仏講、いずれも石塔をいくつも立ててゆくだけの財力がああった。
それは、米の石高の記録ではわからない。
ここでは男たちが湿地から萱を取ってきて、女たちが笠を作り、舘林や古河の笠市で売ったという。
声が聞こえるようではないか、
この土地に生きていたモノたちの。
[共同慰霊碑]
共同墓地の墓石をの多くをここに持ってきた。
墓石をセメントにはめ込んで並べている。
展示陳列か?
合同慰霊碑に刻まれる旧谷中村在籍者氏名
セメントで壁にはめ込まれた墓石。
天保年間(1831年~1845年)安永年間(1772年~1781年)の墓石。
大野四郎(逸見猶吉)の詩『報告(ウルトラマリン第一)』の 一節の刻まれた墓碑銘。
「我等の父母、並びに姉と兄此処に眠る」
大野四郎は、谷中村村長の一族。大野孫右衛門の孫、大野東一の子。
画家の大野五郎は弟。
[田中正造という大きな存在]
死後5か所に分骨され、祀られている。
「正造は、この後も残留民と共に谷中村復興を図り、また政府の治水政策の誤りを指摘するために、関東地方の河川調査を続けましたが、その途中で病に倒れ、大正2年(1913)9月4日、渡良瀬川河畔の庭田家で73歳の生涯を終えました。
春日岡山惣宗寺(そうしゅうじ、佐野市金井上町)で行われた葬儀には4~5万人の人が参列したといわれています。また、正造の遺骨は彼を慕う人々の要望で、正造生誕地墓所(佐野市小中町)、春日岡山惣宗寺、雲龍寺(群馬県館林市下早川田)、田中霊祠(栃木県栃木市藤岡町)、北川辺霊場(埼玉県加須市麦倉)の5か所に分骨されました。 (※年齢は数え年)」
(佐野市郷土博物館webページより)
佐野、舘林、藤岡、太田に、田中正造の記念館、あるいは資料室がある。
地べたから現れ出たようなこの義民もまた神のようにして祀られているかのようだ。
でも、もっと小さな神々がこの地にはいたように思われるのだ。
その声を聴くための、依り代として、田中正造を考えたいと思った。
藤岡市 田中霊祠。
「正造の本葬後、谷中村も埋葬地のひとつに決まり、12月14日に旧谷中村高沙の嶋田熊吉邸に田中霊祠が建てられた。1917年、残留民6戸が渡良瀬川改修工事の土捨て場に移った際に、霊祠も奉遷された。1957年には拝殿が完成、同年末には宗教法人として認可された。正造の分骨を祀った唯一の神社である。」(田中正造大学webページより)
「義気堂々貫白虹」 頭山満揮毫
[庭田源八翁のあとを訪ねて]
「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」の語り手庭田源八翁の跡を訪ねて、佐野市下羽田へ。
「水場 見守る道祖神」。
才川と渡良瀬川が合流する地点で。
庭田源八翁の一族の方の建立。
現在とは渡良瀬川も才川も流れている場所が違う。
庭田源八翁の家も場所を移っている。
洪水と鉱毒で鳥獣虫魚も死に絶え、人も移り住んでゆく。
「ニ十歳以下の者この例を知るものなし」と、
鳥獣虫魚も人も豊かに暮らしていた頃の下羽田の土地の記憶を
語るように綴った庭田源八翁の声を想う。
流れを変えた才川
同じく流れを変えた渡良瀬川。
この草原あたりが庭田源八翁の家のあった辺り。
茂って倒れた枯れ草が積み重なったような草っ原には、
足を踏み入れることができなかった。
下羽田風景。