2018年10月 九州(宗像~熊本~鹿児島の旅)
宗像市多禮 字柚木 指来神社
今回、「不知火浄瑠璃(しらぬいじょろり)」公演に招いてくださった 看取りの家「ひさの」の裏手の丘に鎮座する産土神。
福岡県神社誌にはこうある。
【祭神】 気長足姫命、阿蘇津彦命、大己貴命、高龗神、少彦名命、水波能売命、豊日別命
社殿のなかの奉納画
これは多禮の石鎚神社。
当山の歴史
弥勒菩薩 宗像四国東部札所
当区の祖先は、農産物守護のため、当山に弥勒菩薩を建立した。(年代不詳)依って弥勒山と称する。現在は石鎚山とも言う。現在の石祀には、寛政年間再建と記されており、区民の祭日を毎年三月十三日と定め、昭和中期迄御座を続けていた。
今は十三佛の内に合祀している。
石鎚神社 宗像四国東部札所
明治十二年四国石鎚神社を迎え奉る。宗像全郡に信者多く明治四十一年数百名の寄付者により当山の樹木にて現在の拝殿を建立する。以来四国参拝の信者先達を始め一般の参拝者多く今日に至る。
十三佛は大正三年に建立され、霊験あらたかにて御利益を受くる信者多く参拝者の賽銭の一部にて此の碑を建立する。
昭和五十九年九月
役行者!! 神社と言いつつ、要はこの地域の修験の根拠地の一つ。
弘法大師!!
不動明王をはじめとする仏たち
不動明王の顔が欠け、左腕が落ちているのは、廃仏毀釈の跡だろうか。
いずれにせよ、ここは神社と言いつつも、はっきりと神仏習合の跡を残している。
これらの仏像には大先達〇〇といった寄進者の名も刻まれている。
宗像市池田 孔大寺神社
ここももとは修験。 多禮の指来神社は、もとはこの神社の別院だった。
(神社というから、なにか違和感があるのだが、つまりは多禮のほうも近代以前の神仏習合の信仰の中にあった修験のよりどころだったということ)。
この鳥居の先の遥拝所の裏手には庚申塚がいくつか。
孔大寺神社は明治維新までは孔大寺權現社と呼ばれ、蔵王権現を祀っていた。
以下の説明は、下記ブログより。
http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65708011.html
「孔大寺山は、かつて大峯山蔵王権現(開祖役小角)を奉祀する金峰山修験(吉野山金峯山寺)系の山で、神仏習合の孔大寺神社上宮(旧孔大寺權現社)がある。
また、指來神社の北東600mに薬師如来・弥勒菩薩を安置した多禮「極楽寺山(弥勒山)」(現・石鎚山修験系「石鎚神社」鎮座)がある。
また、岩ケ鼻(同北西500m)にはかつて「豊前坊豊日神社(現指來神社に合祀)」(英彦山修験系)が鎮座していた。
さらに北寄りの峰続き(同1.5km)に真言宗御室派鎮国寺(吉田)が在るなど、低丘陵の占有率が高く耕地面積が少ない多禮地区にはもともと修験道が芽生える地盤があったということなのだろう。
なお、明治維新政府の破壊的な施策により孔大寺權現(社)、指來大明神(社)、豊前坊(社)等の神名(神社名)等は使用できなくなり、当地における修験道、神仏習合的信仰は潰えたが、明治期、極楽寺山(弥勒山)に「石鎚神社」が鎮座した。
これは梛野薬師堂。
かつて、孔大寺神社に参る道には、多くの宿坊があり、ここもその名残のひとつと聞いた。脇に並ぶは、四国88か所の観音さんたちの一部。
もちろん不動明王もいらっしゃる。
夕暮れの宗像の海。
宗像から鹿児島の途上で、熊本日日新聞を読む。
遠いところほど、弱い者ほど、目に見えないところほど、切り捨てられる
忘れられる、復興の風景。
鹿児島 鴨池港 鹿屋を目指して出港する。
目的地はハンセン病療養所 星塚敬愛園。
敬愛園には、八重山出身の入所者の家を訪ねての旅。石垣島からの唄者も一緒。
9年ぶりの再会。彼らは島の唄を聴くことを切望していた。
9年前に訪ねた折に唄者が歌ったものを録音したテープは、もう擦り切れてしまったのだと彼らは言った。
園のはずれにある「敬愛神社」跡を探訪。
湿った林の中に社殿の礎石が残っていた。
戦後、いつ取り壊されたのか。
そもそもなんのために、国家に捨てられた人々の暮らす地に国家神道の神社が建立されたのか。
それは、植民地にも必ず建立された神社と軌を一にする性質のものか。
熊本の菊池恵楓園では1941年に貞明皇后の歌碑建立と同時に恵楓神社も建立されている。
最初の納骨堂跡。
崖の山肌を窟屋のように掘り込んで作ってある。
西本願寺が大いに関わっている。
骨片を集めて収めた収骨の穴の跡。
この湿った林の中で、小さなマムシを見つけた。
とても近代的な旧火葬場。
煉瓦造りの初代火葬場。