松木沢:足尾銅山の煙害と山の乱伐で滅びた松木村跡
松木沢をゆく。風が吹いている。風のなかに声が潜んでいる。
沢の両脇の山は、ほぼ丸裸の山。
山には、「治山と砂防で足尾に緑を」というスローガンのボード。
渡良瀬川源流の水神
煙害と木の乱伐の末の丸裸の山。
この状態が明治の世から昭和まで続いていたことに驚く。
銅の精錬時に排出される亜硫酸ガスを技術的問題でそのまま放出していたという。
いったい後始末ということを考えないのだろうか……。
川を右手に見つつ、松木沢をめざして、旧松木村一帯を歩いてゆく。
渇水期の冬の河原は、まるで賽の河原のようだ。
銅鉱石から銅を選別した後のカラミ(鉄分を多く含む残りかす)を捨てたボタ山。
鉄製の網や、木の塀がボタ山の下には置かれているが、
この柔らかい砂丘のような山が雪崩のように崩れ落ちてきたならば、
なんの役に立ちそうもない。
見わたすかぎり、ボタ山。
この黒い山は柔らかい山。砂丘を歩くように靴がめりめりめりこむ。
道の途中、左手に3つの塚が見えた。
これは江戸期の念仏供養塔のよう。
松木沢に向かって左手、山の方に向かって、山の神らしき祠がある。
あんなふうにずたずたにされた山に、まだ神はいるのだろうか。
この祠は文化年間(1804年から1818年)のもの。
来た道を振り返る。
この道には鹿の足跡があった。
川向うの山からは鹿の、キュー、キューという鳴き声。
姿は見えない。
松木村。
江戸後期の記録では37戸170人の村人。
小麦、豆をはじめとする肥沃な共同の畑。養蚕。
銅山に使用する木の乱伐、亜硫酸ガスによる煙害による木の枯死。
そのうえ、山火事までもが重なり、山は禿山となり、土砂は流出。
硬い岩盤だけの無惨な死骸のような山となる。
村人は当時のお金で4万円を受け取って、村を去ってゆく。
そして、村は銅山のゴミ捨て場となる。
NPO法人 森びとプロジェクト委員会により、植林された木々。
村のはずれ。墓石が集められている。
このほか、多くの無縁仏の墓石は、松木沢の手前の竜蔵寺に集められて祀られている。
かつての村はずれ。
左手の山の頂上部分は岩が壁のようにそそり立つジャンダルム。
フリークライミングの名所らしい。
この川のずっと向う、ひと山越えれば、日光。
無縁の墓石で造られた廃村松木村無縁塔。
渡り坑夫の墓。
ある日、竜蔵寺を遠方より先祖の供養をしたいという篤信の方が訪ねてきた際に調べたという、
そのとき開いた明治23年5月中の過去帳には、
「葬式が30回以上もあるが、古くからの檀家のものは一軒もなく、いずれも他国から足尾銅山に流れてきた鉱夫の関係者ばかりで、幼児以下は15人おり、それも死体分娩、乳児がほとんどある。今から百年以上前の発展途上の足尾銅山ゴールドラッシュ時代のことなので無理からぬ事情であろう。
さて、5月の鉱夫たち自身の死亡は16人おり年齢をみると19歳1人、20歳代8人(23歳1人、24歳5人、26歳1人、27歳1人)、残り7人中4人が生年不詳となっているが、おそらく20歳代であったであろう。いずれも、坑内で働いた手掘り坑夫や支柱夫たちであろう。」
足尾鉱毒事件、谷中村滅亡のことを考える時、
その前に渡良瀬川上流の山の死があったこと、
山村の民の離散があったこと、
さらには、ヤマ(銅山)という、地中の無数の死があったこと、
これを忘れてはならないだろう。
目の前の事件は、山と平地を結ぶ川、
命と命を結んでゆく水脈を抜きにして考えることはできない。
そして、山深く潜って命を削っていた者たちのことも。
山と平地を結ぶ命の水脈を断つところから、
そして水脈を死の水にかえるところから、
日本の近代は始まったのだということを、
足尾鉱毒事件は、如実に、象徴的に教える。
参考。 松木村 - Wikipedia