渡良瀬遊水地 ~旧谷中村跡~f:id:omma:20171221221336j:plain
[渡良瀬遊水池]
東京方面に水を送るダムは8つある。渡良瀬遊水池は唯一の平地ダムなのだという。
これは渡良瀬遊水池でもらったダムカード。
。
ここからは、東京都内に数時間で水を送ることができる。
急を要する給水のときには、ここからまず水が送られる。
なるほど、ならば、足尾銅山が原因で起きた渡良瀬川の氾濫による洪水が東京都内まで広がっていくのも、やはりそこ数時間のことなのかもしれない。
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鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。この崩壊は21世紀となった現在も続いている[注釈 1]。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。
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ハートのへこんでいる部分が旧谷中村跡。
洪水を防ぐという名目で、谷中村の土地を強制的に接収して遊水池を作った。
谷中村、成立から消滅まで17年。
旧谷中村役場跡から。
湿地に立地していた谷中村の役場は、盛り土された土地の上に立っていた。
ここから眺める旧谷中村跡は、一面のヨシの原。地面からは、しばらく好天つづきだったというのに、じわーっと水が染み出る。
しばしば洪水に襲われる湿地では、こんなふうな家の造り。
このあたりの粘土は、近代的建造物を造るための赤煉瓦の原料に最適で、また、製造された赤煉瓦を運搬するのに渡良瀬川は非常に便利で、この近くに煉瓦製造会社が設立された。
以下、wikiの記述。
下野煉化製造会社の歴史[編集]
明治21年(1888年)10月、赤煉瓦(レンガ)製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。出資者は、三井物産の三井武之助・益田孝・馬越恭平を中心とし、旧古河藩主土井利与や古河城下の豪商・丸山定之助らも参加した。初代理事長は丸山定之助であった。明治22年(1889年)には、野木村大手箱で赤煉瓦の製造が開始される。隣接する旧谷中村(現在は渡良瀬遊水地)では、原料となる良質な粘土が産出し、思川・渡良瀬川の水運により、製品輸送も容易であったため、煉瓦製造に適した立地であった[1]。
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旧谷中村役場跡から、菖蒲池のほうを臨む。
大野音次郎屋敷跡。村役場の隣。
この近くにさらに村長だった大野孫左衛門の屋敷跡もある。
桑の木が大きく育って立っている。
このあたりは、蚕紙を作って販売していた、と教えてくれたのは、たまたま園内で出会ったガイドのおばあさん。
さあ、谷中村の共同墓地を目指してゆく。
まずは雷電神社跡。
雷電神社跡の小山から眺めるヨシの原。
このヨシの原は、毎年三月に野焼きをする。
東京の環状線の内側の半分の面積があるのだという。全周30キロだという。
野焼きをして虫を殺す。
東日本大震災後2年間は放射性物質の飛散をおそれて野焼きは行われなかったが、大量に虫が発生して、3年後、放射線量を計測したのちに野焼きを再開したのだという。
これもガイドさんの教え。
ヨシを焼くと、その肥沃な湿地にトネハナヤスリが芽生える、そのあとに今度はノウルシが芽吹く、……、やがてヨシが生えてくる。
鉱毒で一度死んだ湿地帯に、今はラムサール条約で守られている絶滅危惧種が生きている。植物も、魚も、虫も。
<トネハナヤスリ> <ノウルシ>
延命院共同墓地。
延命院は真言宗。雷宝山延命院。確かめてはいないけれども、これは雷電神社と1セットだったのかもしれない。修験関係での要調査項目。
共同墓地。墓石をここに残した村人がいる。村をけっして捨てない、忘れないという意思表示。
この墓石には、正徳(1711~1716)、享保(1716~1736)といった年代が刻まれている。谷中村に統合された旧古川村の村人の墓石。
これは旧谷中村史跡を守る会が立てた「為谷中村有縁無縁一切精霊」塔。
ガイドさんが共同墓地手前の道で見つけて拾ってきた死せる野ネズミ。延命院跡にそっと置かれた。
共同墓地脇には、庚申塚と十九夜の石塔。
庚申塚は庚申講。男連中が60日に一度めぐってくる庚申の日の夜に集まり、三尸の虫が日ごろの悪事を天帝に告げぬよう、夜通しの会。
十九夜は女たちの念仏講。
十九夜の石塔は7基あったのに、4基盗まれたとガイドさん。
下野 都賀郡下宮邑内 古川・鎌立両村講中。とある。
旧谷中村共同墓地には庚申塚1基、十九夜石塔3基のみだったが、遊水池入口にある共同慰霊碑のところには、それぞれ軽く10基を超える庚申塚、十九夜石塔が無造作に置かれている。
それは、旧谷中村がけっして貧しい村ではなかったことの証左でもある。庚申講、十九夜念仏講、いずれも石塔をいくつも立ててゆくだけの財力がああった。
それは、米の石高の記録ではわからない。
ここでは男たちが湿地から萱を取ってきて、女たちが笠を作り、舘林や古河の笠市で売ったという。
声が聞こえるようではないか、
この土地に生きていたモノたちの。
[共同慰霊碑]
共同墓地の墓石をの多くをここに持ってきた。
墓石をセメントにはめ込んで並べている。
展示陳列か?
合同慰霊碑に刻まれる旧谷中村在籍者氏名
セメントで壁にはめ込まれた墓石。
天保年間(1831年~1845年)安永年間(1772年~1781年)の墓石。
大野四郎(逸見猶吉)の詩『報告(ウルトラマリン第一)』の 一節の刻まれた墓碑銘。
「我等の父母、並びに姉と兄此処に眠る」
大野四郎は、谷中村村長の一族。大野孫右衛門の孫、大野東一の子。
画家の大野五郎は弟。
[田中正造という大きな存在]
死後5か所に分骨され、祀られている。
「正造は、この後も残留民と共に谷中村復興を図り、また政府の治水政策の誤りを指摘するために、関東地方の河川調査を続けましたが、その途中で病に倒れ、大正2年(1913)9月4日、渡良瀬川河畔の庭田家で73歳の生涯を終えました。
春日岡山惣宗寺(そうしゅうじ、佐野市金井上町)で行われた葬儀には4~5万人の人が参列したといわれています。また、正造の遺骨は彼を慕う人々の要望で、正造生誕地墓所(佐野市小中町)、春日岡山惣宗寺、雲龍寺(群馬県館林市下早川田)、田中霊祠(栃木県栃木市藤岡町)、北川辺霊場(埼玉県加須市麦倉)の5か所に分骨されました。 (※年齢は数え年)」
(佐野市郷土博物館webページより)
佐野、舘林、藤岡、太田に、田中正造の記念館、あるいは資料室がある。
地べたから現れ出たようなこの義民もまた神のようにして祀られているかのようだ。
でも、もっと小さな神々がこの地にはいたように思われるのだ。
その声を聴くための、依り代として、田中正造を考えたいと思った。
藤岡市 田中霊祠。
「正造の本葬後、谷中村も埋葬地のひとつに決まり、12月14日に旧谷中村高沙の嶋田熊吉邸に田中霊祠が建てられた。1917年、残留民6戸が渡良瀬川改修工事の土捨て場に移った際に、霊祠も奉遷された。1957年には拝殿が完成、同年末には宗教法人として認可された。正造の分骨を祀った唯一の神社である。」(田中正造大学webページより)
「義気堂々貫白虹」 頭山満揮毫
[庭田源八翁のあとを訪ねて]
「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」の語り手庭田源八翁の跡を訪ねて、佐野市下羽田へ。
「水場 見守る道祖神」。
才川と渡良瀬川が合流する地点で。
庭田源八翁の一族の方の建立。
現在とは渡良瀬川も才川も流れている場所が違う。
庭田源八翁の家も場所を移っている。
洪水と鉱毒で鳥獣虫魚も死に絶え、人も移り住んでゆく。
「ニ十歳以下の者この例を知るものなし」と、
鳥獣虫魚も人も豊かに暮らしていた頃の下羽田の土地の記憶を
語るように綴った庭田源八翁の声を想う。
流れを変えた才川
同じく流れを変えた渡良瀬川。
この草原あたりが庭田源八翁の家のあった辺り。
茂って倒れた枯れ草が積み重なったような草っ原には、
足を踏み入れることができなかった。
下羽田風景。