八百比丘尼の旅 いのちをめぐって 抜き書き
もし、わたしが子を産んでいなかったなら、こんな形で日本海の浜辺をさまよったかどうかわからない。まるで民族の深層心理をたずねたがるかのような、あてもない旅などしなかったかもしれぬ。子をみごもっていた時の、ふしぎな知覚は予想もしないことだった。(『海路残照』p150)
まだ人としては存在せぬ胎内のいのちと共に、いまここに在るわたしは何なのか。
かつて日本人は出産に対しても、それを不浄視して禁忌した時期だけでなく、もっと自然な肯定的なとらえ方をしていた時があるのではあるまいか、近代化は産の禁忌をうすれさせたが、古代人が持っていた生命観を越えるほどの産みの思想はまだ持てないでいるのではなかろうか。(p153)
生命には、みごもりの季節があり、人びとも生まれ、産み、そして消滅するものとしてとらえられているかに、海の女神の諸伝承はわたしにきこえるのである。
(中略)
海神信仰が神道からうすれるとともに、人の世の秩序に対する幻想は、ひとつの肉体にふたつの霊魂というが如き妊婦の感性と発想を、秩序体制の外に置くことで完結するものとなったのだろう。それは妊婦にかぎらず、たとえば遊女という、おもむくままに性をたのしむ女を編戸の民の外に置いて秩序幻想を保ったように。が、その幻想は少女期をすぎた女をまるごと枠外にはずすことで成立する、きわめて肉体的な、単一性による共同幻想にほかならない。(p156)
八百比丘尼の消える地帯。それはあらたな産みの思想がひろがっている地域にちがいない。おそらくその生殖や出産の信仰は西方のそれと同じように、地下に埋もれていることだろう。けれども庶民の死生観の中には、まだよごされぬまなざしは残っているかもしれないのだった。わたしは玄界灘からはるばると旅させられた長寿の海女話が、異神のなかでとまどいつつ、しかしようやく納得のいく異文化をみつけていのちを終えたかに空想してみたりする。わたしの心は異神に会いたくなっているのだった。(P163)
石垣島 「標準語行進曲」をめぐって/1939年 石垣小学校学区内を大行進
石垣小学校
参考) 「月刊やいま」1999年6月号より
標準語励行運動
昭和11年9月、県下校長会において、県学務部から諮問があった「現下の状勢に鑑み標準語を一層普及徹底せしむる具体的方案如何」に対して審議がなされ、後日「国語愛護国語尊重の精神を徹底を計ること」「標準語使用習熟の機会を多からしむこと」「レコード・映画の鑑賞をなさしむること(但し標準語普及に障碍を来すレコードの鑑賞を禁ずること)」「家庭に於いても標準語使用を励行すること」等の答申がなされた。また県社会課が募集した標準語普及標語には、小学生の「いつもはきはき標準語」「沖縄を明るく伸ばす標準語」「よい子はいつも標準語」「一家そろって標準語」が当選した(先嶋朝日新聞・昭和14年8月27日)。八重山でも学校から標準語励行運動が始まり、役所・家庭・地域全体へと広がっていった。
そのトップを切ったのは、石垣小学校である。標準語指導として、
一、校の内外を問わず、児童同志は必ず標準語を使用すること
一、感嘆詞であっても方言は許さざること
一、故意でなく不用意の間に発する方言でも許さざること
一、知らざるがために方言を使用することも許さざること
を決めた。「標準語の使用励行は、東亜の盟主とならんとする現時局から考えても、国策に沿うもの」(海南時報・昭和14年4月29日)と支持された。そして同校は標準語行進曲を制定、学区内を大行進した。歌詞は5番まであり、1番は次の通りである。
御代は昭和だ 興亜の風だ 僕等は明るい 日本の子供 けふもニコニコほがらかに 言葉ははつらつ 標準語
その翌年、昭和15年に日本民芸館の柳宗悦が来県し、沖縄県の標準語励行運動は行き過ぎと批判し、沖縄文化の再認識・再評価を説き、県学務部との論争へと発展。論争は中央(東京)にまで飛び火した。
石小で標準語励行運動の先頭に立った桃原用永は、戦後「標準語励行運動は八重山の文化(方言)を否定したものではなかった。子どもたちの命を守るためだった。軍国主義の世の中で方言をしゃべると、スパイとみなされたり素行が悪いということで二等国民と称され、殴られたり、ひどいときには死に至らされる。子どもを守るためにやむを得なかった」と話した。
実際、沖縄戦の末期、日本軍は「方言を使うものはスパイとみなす」と通達を発し、事実、処刑された者も多い。
2021年9月19日 南三陸 田束山~入谷・神行堂山~ひころの里
田束山
入谷 神行堂山
ひころの里 入谷郷土資料館
入谷の月
気仙沼 大島
2021年9月19日 朝七時半、気仙沼大島大橋を渡って大島へ
横沼 地震碑
龍舞崎に向かう道の傍らに。
昭和8年3月3日の大地震と津波の碑。
「大地しんそれつなみ」と刻まれている。
龍舞崎。
復興国立公園とある。
以前は、金華山国定公園だったと地元の人。以前のままでよかったのに、とも。
龍舞崎の道祖神の社
[
小田の浜から対岸の唐桑半島を望む。
時間があれば、かつては捕鯨で大いに賑わったという唐桑の鮪立に行ってみたかった。
浪切さんは、津波除けの神様
計仙麻大島神社。
この神社の周囲の山は、震災時、流れ出た重油のために燃え上がった湾内の火が飛んできて、山火事になったのだという。
ふと、顔をあげたら、山から神社の方へと降りてきた一匹の鹿と目があった。
カメラを向けたら、くるりと向きを変えて山へと戻っていった。
田村三代記の旅 その3 「宮城 涌谷 箟峯寺」
無夷山箟峯寺
(夷の無い山って、すごい名前·········)
奥州三十三霊場第九番札所として有名。
古来殺生禁断、女人禁制の聖地だった。
大門から一歩ふみこめば、罪人も捕らえられなかったと言われ、ただ一つの村外地だったという。
(近くの小学校は白山箟岳小学校。これもすごい名前だ。
ちなみに寺の直ぐとなりは観光センターで、直ぐ近くにゴルフ場。)
箟岳観音は奥州三観音の一つ。
大同2年(807年)坂上田村麻呂建立と伝えられ、本尊は十一面観音像(秘仏)。 三十三年に一度ご開帳とのこと。
今日は午後5時前に寺にたどりついたのだが、午後4時半で拝観は終わりと、ご住職はいたけれど、本堂の扉はピシャリと閉められて、しかたなく広い境内をぐるりと歩き、眼下に広がる登米の町を見下ろし、
こんな奥州の外れの地まで勧進に来たという奈良からの勧進聖たちの遥かな足跡をしのんだ。
台風の名残の雨が降っていた。
山門に微笑み仁王
日清 日露 第二次大戦の忠魂碑
閑さや 寺社にしみ入る 国の音
白山堂
箟宮跡
征服者の眼差し。
秋の山唄
箟岳を下れば、もう日暮れ。一路、気仙沼へ。
奥州涌谷の 箆岳さまは
山子繁盛の 守り神
気になる気になる お山の狐
これほど待つのに なぜコンと鳴く
田村三代記の旅 その2「宮城 赤沼 染殿神社」から「伊豆佐比賣神社」
染殿神社
伊豆佐比賣神社 (九門長者屋敷跡)